でなんだか最近ずっきんどっきんといろんな魔術が解かれていく気がする。

さっきもまた懲りずにサリーをオンラインで眺めていたのだけど、私が必死にサリーを見る理由は、なんだかサリーを買って着て、インド人に会えば、私がインド人に大切にしてもらえるかもしれないという願望がかなうような気がしていたからだということがわかった。

最後にスカイプをしたとき、私はとても疲れていたのだけど、話をしているからついでと思って話しながら洗濯物をたたんでいた。

なんか変な感じに欲情しているっぽいめでじいいいいいいいいいいいいいっと見つめられているのも間が持たなくて、たたんでいる洗濯もの(主に部屋着とか寝巻き用のドレスっていうかワンピース?)を紹介していたら、それを着ろ、とか言い出した。

一個目は私がむかしZARAで買い物をした薄い生地で二重になってできたスカートを切り取って首と腕が出るようにしたもので、それはちょっと自慢だったので、見せていたのだけど、(そんでそれを着用した)そうしながら、薄いコットンのスカーフみたいな生地でできたまあ、外できるとしたら水着のカバーアップ用の、背中が全開きになるドレス見たいのがあったんだけど、それを紹介してた。

するとこれも着ろ、といいだして、着てほしいならえらそうに命令せずにプリーズと言いいなよ、といったら(はっきり言ってシャワーも浴びてないのに清潔な服を着るのはやだったけど、最初のは着てあげたじゃん、見たいなことも言った)、そしたらプリーズとは言わん!
見たいな事を言い出して、喧嘩っぽくなったのでめんどくさくて切った。

そんでそのときに思ったのは、いつも話した後おもうんだけど、
「使われた感」満載な自分の気持ちだった。

そんでここにかかれてたことを思い出した。
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2015/02/03/entry_005624.html

こいつは私のことを好きだとか愛しているとか言うけど、自分の俺様膜にかつていた女で、今でも時々俺様膜には言ってくる女で、俺のことがすきで俺の言うことを聞く女だという風に思ってんだなあ、と思った。

私は私で、私膜に以前いた男で、私膜の中では私のことをずっと好きな男、という役割を担わせているので、こいつが変なことを言ったりしたりしても、なんか高橋ジョージみたいに、
「こいつ(元奥さん)は俺が好き」
ってずーっと思っているみたいだ。

理性とか頭脳が違うと言っても、ちっとも聞いてはくれず、そういえば最初のころはずいぶん自分の中で混乱したけど、そういうもんだと思えばそれでもよくなって来てた。ていうか、相手のことがどんどんどうでもよくなってたんだと思う。

その代わり自分の刷り込み(私はインド人に囲われて優雅な生活をする)見たいな幻想が出て来てて、なんかそれがどんどん加速して来てた。

しかもここでの毎日がつまんなくなればなるほど、辛くなればなるほどその思いは強まってったんだと思う。

毎日がつまんない、とか辛い、というのは、どうしてかっていうと今ここで起きていること(給料がもんげ安いとか、自分の貯金切りくずしてフルタイムで働いているとか、召使みたいな仕事だとか)を自分ですごく受け入れられなくて辛かったんだけど、まあ、だんだんなんとなく
「それでもいいや」
見たいな気持ちになってきて、その根拠がすごく見つからずに余計に長引いたのだけど、最近ほんとにそれでもいいやって気持ちになって来てて、今までの個人内バトルの全容がすこしづつみえてきた気がする。

なんかほんとにそれでもいいやって気持ちになってきた。

私の中でなんか俺は戦ってない!っていうか、あの白人ちんこくさい会社内にいて、アジア人の癖に態度も体もでかくて、なんか扱いづらくてやなやつ的な役回りにされて、お目ーよ、俺がいろいろ教えてやっただろ!とかいろんな人に思ってた、ちびちんこ根性の俺様のほうがもっと悲惨な気持ちを持っていたのだけど、ちびちんこ回虫根性の男ジェンダーな俺は、ハワイにきて、男だから俺は偉い、みたいなはああ?って言うようなおっさんや若いのに囲まれて、頭が千切れそうになったけど、ちんこジェンダーの俺は、女ジェンダーの私に向かって、

「お前が根性なしだから、こんな場末のこんな場末な業界の場末な会社の事務のおばはん/女中みたいな仕事してんだよ!」

という脳内罵倒が始まってた。

仕事してみると意外にいい人だけど、みんなひっしに今の仕事にしがみついている人ばかしで、それ以外は、なにも出来ないくせに何でもで着て俺は仕事ができると思っている人の召使みたいな役にさせられる、というなんだこの状況まじかよバージョン、という事態に陥るたびに、そのちんこはさらに女子をいびるのであった。

でも女子ジェンダーの俺は意外に強く、

「でも最後はみんなどうせしんじまうんだから、うるせえよ」

ぎゃあぎゃあうるせえちんこにと超低音で言って黙らせてしまった。

その状態になるのは、たぶん女子もちんこも両方結構怖かったことなんだけど、最近ほんとに思うのは、NYのちんこ会社も、今の会社のちんこ男女も私もどうせみんな死んじまうし、またどっかにいっちゃえばこの全ちんこたちも私の過去を彩ったちんことして走馬灯のさし色でしかなくなっちゃうんだよなあ、と思えたからもう怖くなくなった。

あとは、私は私のテークケアーをちゃんとして、どんどんこれから増えていく、私より先に死んでいくやっぱり大事な人たちに、ちゃんと距離と尊厳を持って、遠くからお祈りしてあげればいいんだなと思った。

それと、ロンちゃんは、ロンちゃんに注意を向けると、ロンちゃんは自分に注意を向けてくれて、遊んでくれて、なでなでしてくれて、エクストラロング散歩に連れてってくれていい気分にさせてくれる私が好きなのであって、きっと私という概念はなんだか時々あらわれる幽霊みたいな存在で、なんかいい気分になるにおいみたいなもんじゃないかな、と思った。

私はにおいでもいいけど、でもやっぱりロンちゃんがいなくなるのはすごくいやで、でもそれは、私がサービスすれば必ず跳ね返ってくる大好き光線が好きなのであって・・・。

6月に母が来るのだけど、私はきっとかなり長い間母にとってロンちゃん的な存在(たぶん反抗期までだと思うけど)だったんじゃないかと。
自分を無条件に受け入れて、(それはそうすることでしか母のアテンションをえることが出来なかったので)ほんの少し与えたものに対して、私がすごく反応して母に愛情を与えてくれることがうれしかったんだと思う。

だからはなれても、海外に住んでも、自分が何かを得られると思った時点で、すごくくっついてくるけど、私が大変なときはしらんふりだった。

まあ、母のこともいろいろ書いてきたけど、私は母に真に愛されたことはなかったわけで、まあ彼女の子供は誰も真に愛されたわけでなく、それは、母自体がおばあちゃんからきちんと愛されてなかったわけだからだ。

その連鎖はとても悲しいし、もうすぐ来るかもしれない母の人生の結末も悲しいかもしれない。

でもずいぶん前に見た夢みたいに、母は私に中古の小さなどこにでも果敢に行くことができるスポーツカー(私の体と基本人格)を与えてくれて、私が自分の幸せに向かって、どこまでも行くことが、たぶん本当の結末を悲しいものにしないためにとても大切なこと何じゃないかと思っている。


で、そう思えるようになったのは、母を許し、自分を許し、自分のゆがんだ刷り込みを見つめなおし、自分はやっぱり母に愛されてなかったんだな、と自覚をすることが怖くなくなったので、できたことだ。

最近思うのは、わたしもやっとインド人にちっとも愛されてないし、大事にもされてなかったと自覚することがほんとうにやで、こわかったんだなと思う。

なんでこわかったかというと、たぶん
「それ=インド人は実は私のことを思っててくれたと思い込みたい私」は
「親からの愛情をもらえなかった「けど」インド人は私のことをずっと思っててくれた」と思い込むことがささえだった時期がすごく長いってことなんじゃないかなと思う。

その役割は、Aだったときもあるし、鹿だったときもあるし、インド人だったり、ジョニオ君だったりと、時々によって私と恋愛関係にあった男たちに変換されていた。

結局私が求めていたのは母親の代わりであって、幼児性の強い私は、私の世話をしてくれる人を求めていただけであった。

「対等な関係を築くパートナー」なんてものが何なのか本当にわかっている人は極少数だと思うけど、役割分担でお互いそこそこ幸せでいるようにやっていうこうよ、なんてことは怖くてとても思えなかった。

まあおかげさまで、それなりにお金と時間を費やして、セラピーとかそのほかいろいろのおかげで、何とかもうそういう人を求めなくなってしまった私は、なんだかつき物が取れたように人への執着心とかがなくなって来ている。

それもずいぶんとまどうものだったけど、ハワイに来て一番実感するのはこの風とか土とか空とか葉っぱとか水とかそういうものが本当に存在するもので、それ以外は100年もすればなくなっちゃうもんでしかないんだよねえ、と思うようになった。

そうおもったら、ちんこ会社もちんこ会社で働く脳ちんこsもどうでもよくなってきた。
やつらがどんな人生を送ろうが、幸せでも不幸でもどうでもいい。(でもやっぱり不幸でいたらその方がすかっとする)

でもこうやって書くとばかばかしくていいわ。


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