ぐぶぐぶぐぶ

2014年10月30日 日常
昨日の夜からの涙の大洪水の結果今朝はよれよれ。

でも大丈夫。きっと夕方には立ち直る。

昨日の感情のレメディとして、おうちではいろいろあったけど、幸せな結婚生活をしているFBのお友達のページをみている。

デリーでお世話になったカップルが、バンガロールに引っ越すそうだ。

奥さんのほうはバンガロール出身で、ボンベイ出身のだんなさんとであったのはバンガロールの中学校だそうなので(二人は中学生のときの恋人同士)、地元に帰るのはいいだろうなあ。

でも私が泊めてもらったあのアパートはもう、泊まれないのね・・・・。

なんだかちょっとノスタルジア。


きっと私の生活がスローになっていったのも、いろんなことを感じることを自分に許したので、overwhelmになっているんだろう。

時間を取って、それぞれの感情や思い出のインパクトを受け止めるいい機会だとおもう。


もともと美術をしようと思ったのも、いつも授業を聞きながらノートを取る代わりに落書きをしていた。
でも以外に聞いた話は覚えていて、(耳ベースの人なんですね)テストの前にざっと教科書に目を通すと、聞いたところと読んだところがマッチする場所だけ確認して受ければそこそこの点は取れた。

というのも、小学校に上がってから友達と遊べずに(心理的なストレスが高くて社会性がなかった)、学校でもうちでも漫画か本ばかり読んでいたから、読解力は高かった。

友達と遊べない、という状態は、自分ひとりの部屋に移るようになってから瞬く間に解決した。

家族と(小学校3年生までは両親の部屋で、そのあとの1年は真ん中の姉との同室で)離れて自分のスペースを確立したとたんに私の社会性は機能しだした。

家族とのトキシックな関係に絡まれているあいだは、子供の私は外の世界とうまくつながることもできなかった。

私の他人に共感し、他人の状況に敏感な習性はそうしなければ生き残れなかったから。
自分をなくしてでも、他人の状況を感知し、それに対応することで私は子供時代を生き延びてきた。

楽しい子供時代、なんてものは思い出せない。

だからこそ、いま、自分のしたいとおもうことはすべて自分の手でかなえてあげることが、恐怖にくるまれて「楽しい」子供時代を持たなかった自分への供養。

でも、私には母がいた。

母は、精神的には親としての機能を持っていなかったかもしれないけど、母が家にいてくれた、家事をしてくれる役目を持った大人がいた、ということがどれだけ恵まれていたことなのか、ということは、母親をアルコール依存症で生きながら失ってしまったひとのはなしを聞いて痛感した。

子供のころに母親としての役目を果たさなくては、家族の中で生き延びることができなかった人たち。

母が「逃げなかった」ことが、どれだけ自分の成長に役立っていたのか。

母が家事をしてくれていたこと、父が仕事をしていたこと、そんな「当たり前」の家族の構成の中で育ったことが、実はどれだけ恵まれたことなのかをミーティングの中で知った。


その役目を私の両親が果たしてくれていたことを私は感謝できるようになった。




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