さっき鍼灸師のヘマにメールをして、(インドに残してきたお母さんが末期がんになってしまった・・・・)励ましたり、自分の報告をして、中華屋さんに行ってさっさと飯を食おうとしたら、足に障害があって歩行器で歩いているおばあさんが前にいてお店に入ろうとしてたので、ドアを押さえてあげた。
おばあさんは私が注文を終わるまでいすに座って待っていたようで、私がダックヌードルスープのできるのをレジ付近でまっていたら、
「もう注文したの?」と遠慮がちに聞いてきた。
大丈夫もう注文したよ、というと、安心したようにして、
「ここに毎日来るのよ」と言っていた。
おばあさんは少しぼけているのか知能障害があるのかどちらかのようだった。
私はヌードルスープを持って席に座ったらなんだか泣けてきた。
うちの母方のおばあちゃんは、山形の村で生まれて、お母さんが死んでしまった小学校3年生までしか学校にいかせてもらえなくて、その後ずっと郷里から離れて子守をして働いた。そのうち絹糸工場で働き、20歳くらいで横浜に一人できて、人の勧めで私のおじいちゃんとなる人の3番目の後妻として入った。おばあちゃんとおじいちゃんは20歳くらい年が離れていたらしい。
おばあちゃんは厳しい人だったらしく、恋愛をしていたうちのママのことをふしだらだと良く怒ってたそうだ。
おばあちゃんの人生には、恋愛などきっと許されなかったんだろう。
とっても貧しかったので、一年に一回お正月に新しい着物を買ってもらったそうだ。
コタツでゆでた大豆を暖めて、納豆を作って食べたと何度もいってた。
酒飲みだった父親に、死ぬ間際にお酒を口から飲ませてやろうと思ったけど、ぷーっと噴水みたいに吐いたもんなあ。
と何度もいってた。
おばあちゃんにとって、自分の働いたお金で自分のものが買えるのはとても素敵なことだったんだろう。
おばあちゃんの父親も、おばあちゃんが十代のころに死んだそうだ。
私が就職するころには、時々うちで預かっていて、毎朝私が品川に仕事に行くのに、
XXちゃんは学校か?
と聞くので、
もう学校は出たよ、仕事に行くんだよ、
というと、
へ~~!東京にいくのか!
というので、
そうだよ、品川だよ。
というと
毎日えらいもんだなあ~!東京にいくのか!
という。
おばあちゃんちから品川までたぶん30分くらいしかかからないと思うよ。うちからだと1時間くらいかかるけど。
おばあちゃん(おばあちゃんち=うちの母の実家は横浜駅から歩いていける距離にある)ちから東京はそんなに遠くないよ。うちに来るのと同じ位よ、
と言っても
東京か~!!!
と感心してくれるのだった。
そして、たまに500円とか1000円とかくれようとする。
おばあちゃん、私もう働いているからいらないよ、といって受け取らなかった。
今思うとお年玉をいつももらってばかりではなくて、あげればよかったなあ、と思う。
体が不自由になってからは人の邪魔にならないように、いつも気をつけている人だった。
筋子が大好きで、おばあちゃんが作ってくれる巨大なおむすびにはいつも辛いくらいたくさんの筋子が入ってた。
何でか思い出してしまって、泣いてしまった。
優しい人
悲しい人
この年になってやっとなんでみんなが子供をほしがるのかわかったような気がする。
大事な人が年老いていなくなっていく辛さは、自分が子供をかわいがることで癒されると思う。
おばあさんは私が注文を終わるまでいすに座って待っていたようで、私がダックヌードルスープのできるのをレジ付近でまっていたら、
「もう注文したの?」と遠慮がちに聞いてきた。
大丈夫もう注文したよ、というと、安心したようにして、
「ここに毎日来るのよ」と言っていた。
おばあさんは少しぼけているのか知能障害があるのかどちらかのようだった。
私はヌードルスープを持って席に座ったらなんだか泣けてきた。
うちの母方のおばあちゃんは、山形の村で生まれて、お母さんが死んでしまった小学校3年生までしか学校にいかせてもらえなくて、その後ずっと郷里から離れて子守をして働いた。そのうち絹糸工場で働き、20歳くらいで横浜に一人できて、人の勧めで私のおじいちゃんとなる人の3番目の後妻として入った。おばあちゃんとおじいちゃんは20歳くらい年が離れていたらしい。
おばあちゃんは厳しい人だったらしく、恋愛をしていたうちのママのことをふしだらだと良く怒ってたそうだ。
おばあちゃんの人生には、恋愛などきっと許されなかったんだろう。
とっても貧しかったので、一年に一回お正月に新しい着物を買ってもらったそうだ。
コタツでゆでた大豆を暖めて、納豆を作って食べたと何度もいってた。
酒飲みだった父親に、死ぬ間際にお酒を口から飲ませてやろうと思ったけど、ぷーっと噴水みたいに吐いたもんなあ。
と何度もいってた。
おばあちゃんにとって、自分の働いたお金で自分のものが買えるのはとても素敵なことだったんだろう。
おばあちゃんの父親も、おばあちゃんが十代のころに死んだそうだ。
私が就職するころには、時々うちで預かっていて、毎朝私が品川に仕事に行くのに、
XXちゃんは学校か?
と聞くので、
もう学校は出たよ、仕事に行くんだよ、
というと、
へ~~!東京にいくのか!
というので、
そうだよ、品川だよ。
というと
毎日えらいもんだなあ~!東京にいくのか!
という。
おばあちゃんちから品川までたぶん30分くらいしかかからないと思うよ。うちからだと1時間くらいかかるけど。
おばあちゃん(おばあちゃんち=うちの母の実家は横浜駅から歩いていける距離にある)ちから東京はそんなに遠くないよ。うちに来るのと同じ位よ、
と言っても
東京か~!!!
と感心してくれるのだった。
そして、たまに500円とか1000円とかくれようとする。
おばあちゃん、私もう働いているからいらないよ、といって受け取らなかった。
今思うとお年玉をいつももらってばかりではなくて、あげればよかったなあ、と思う。
体が不自由になってからは人の邪魔にならないように、いつも気をつけている人だった。
筋子が大好きで、おばあちゃんが作ってくれる巨大なおむすびにはいつも辛いくらいたくさんの筋子が入ってた。
何でか思い出してしまって、泣いてしまった。
優しい人
悲しい人
この年になってやっとなんでみんなが子供をほしがるのかわかったような気がする。
大事な人が年老いていなくなっていく辛さは、自分が子供をかわいがることで癒されると思う。
コメント