母帰国

2013年12月2日 日常
長かったような短かった一週間が過ぎて、今朝母は日本に帰っていった。
思ってたよりもうんと労力も気力もいったのだけど、よく考えれば、私のところに来ても、姉つきで旅行に来たときも一人で外に出て行ったことなんか無かった人だった。前にきたことあるから一人でいろいろ出来ると思い込んでいたのは、私のまったくの計算外だった。

年もとっているし、生まれてはじめて一人で暮らして、らくだとはいってたけど何もかも一人でしなくちゃならない生活にはじめてなって、だれかに世話してもらいたかったのではないかと思う。どんな重病人なのか?と言うくらい何もしない最初の三日間。ほんの少し自分のアパートで自分の時間を過ごしたいとおもい、一時間だけロビーで過ごすように頼んだけど、翌日同じことを頼んでも却下だった。
仕方ないので、友人のマルコに頼んでお昼に連れ出してもらう。それでやっと少し自分のアパートで自分で過ごす時間が取れて、サンクスギビングの用意や掃除が出来たってもんだ。

ま、これに懲りてもう一人でくるようなことはないかな。
正直言って、ワンルームのStudioを他人と1週間もシェアすることは無理だと気づいた。2-3日ならまだしも・・・。


今まで安受けあいして、おいでよ!なんていってたけどそんなことはやめなきゃなあ。


一日雨降りで疲れているので、アイスクリームを食べながら寝転んでOZを見る毎日の生活に戻る。人がいると言うだけでなんてuncomfortable なことか。
しかも心が通っているとか生活のスタイルや考え方が似ているとか話があうとか、そういう次元にはいない肉親・・・・。

むずかしいよ。

今回は以前のようにいつの間にか相手の境界線内に引きずり込まれて自分を見失ってしまうようなことは無かっただけに、余計不快だったんだとおもう。私は母といると不快におもうあまり、自分を消してしまう。それが今までの近い人間関係のパターンだったんだけど、今回はそれがはっきり見えた。

はっきりするにつれて、本当に私はこの人を反面教師にして自分を育ててきたので、あまりにも共通点が無さ過ぎて閉口してしまった。時々自分で、本当にこの人は私の母親/私はこの人の子供なんだろうか?とおもってしまうことがたびたびあった。


私は自分の家族のdeprivation から自分を救うために、本当に遠くまで来たんだなあ、と心底感じた。少ないものを奪い合う浅ましい生き方。うちの家族のデフォルトのそれだけはしたくないと、どんなに貧しくったって、あの人たちのスタイルだけはしたくないとおもってた。

私にはそんなやり方はそぐわないから。と言うよりも、そういうなかで生きていくことがもう出来なかったから。


アラノンを続けて、家族の仕組みを話続け、それに対する自分の感情やパターン話しつづけ、いろいろなことが明るみになっていけばいくほど、自分と家族の距離を感じる。そうすることでもっと関係が近くなるかもしれないとおもっていたのは自分の希望的観測で、やっぱり違いを認識するごとに、共感できる部分はないんだな、とおもう。


愛していないわけではない。
愛しているのだけれど、好きになれないんだとおもう。

違いすぎて、身近にいられるのが苦痛なんだとおもう。それはきっと昔からわかっていたし、だからこそわたしは外国で暮らすし、だからこそ回復に向かわざるを得なかった。


既存のシステムのなかで暮らすのは苦痛だったから。


いずれにせよ、そういったことが実感できても、不快だと認識できるようになったのは大きな進歩だ。以前なら、最初の三日で自分の感じ方は捨てている。母といるのが苦痛なため、自分の感覚を捨てて相手に合わせてしまうのだ。それで傷つけられれば、死にたくなってしまう。相手に見捨てられる前に自分で自分自身をすでに見捨てているから。

なんてことを考えながら、少し寂しい気持ちを感じつつもほっとする夜なのだ。

demanding な人との関係は家族との関係。私はそれを受け入れる必要はもう無いのだけど、家族と関係を持つ=依存的な人の理不尽な要求を受け入れる、と言うことになってしまう。
悲しいとはおもうけど、家族との関係を持つ限りそれはついて回るのだ。

その頻度をどのくらいにするかは自分にかかっている。私には選択権があるのだから。


いずれにせよ、無事に帰ってもらえてよかった。
私も自分の義務を果たせて、ほっとした。

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