ここのところワイキキはとても暑くて、クーラーを入れて眠る日がありました。昨日は気温的にはそんなに暑くなかったけど何度も目覚めてしまうので、ファンのみで対応。
風があると涼しくて眠れるわ。
常夏の国ハワイならではの話題ね~。
北国NYはもう寒いそうです。
昨日はゲイともフレンズの片割れジムにくっついてアラモアナ→チャイナタウン→ホームデポ→ウォルマート/サムズクラブにいったんだけど、サムズクラブってやたらとで買い物を売ってて、80インチのテレビとか買っている人がいて、下手したら私の部屋の壁よりでかいんじゃないかと。
あんたそんなに広い部屋に住んでいるんすか?と思ったけど、いるんだろうな、そういう人。
ジムは、周囲の雑音に消え入るような声で話すので、オープンエアの人ごみにいると何を言っているのかわからないときがある。大体内容は、昔の話か彼のパートナーの愚痴なので、たいしたことではないんだけど、やっぱり他の人たちから離れて住むと、いろんな意味で孤立化しちゃうのかも。
こっちを向いてサービス笑顔をしているときにはいいお顔なのだけど、気を抜いているときとか誰かと電話で話しているときの表情を見ると一体何が起こっているのだろうというような怖い顔になっている。
NYにいたとき私は、ご飯に呼べばNOとは言わない都合のいい人数あわせの友達だったんじゃないかと思う。
特に面倒をかけるわけでもなし、私の前では彼らは気軽にけんかも出来る。
そうやって考えると、NYで一緒に買い物をしたりどこかにいったりすることはほとんどなかったので、ハワイに移住するようになってからもっといろんな面で知り合うことが出来たんだなあと思う。
知れば知るほど結構驚くことばかりなのだけど・・・。
だからつい、ミューチュアルに用事が無いときは、時々断ってしまう。
以外に疲れるし、同じような話を聞くのもうんざりしてきた。
でも二人にとってはお互いが被害者のような関係の持ち方が持続しやすいのだろう。
まあ、誰でも似たようなもんだと思うけど。
期待も不安も大きくない、適度に不幸で不満を持ち続けることが出来る関係が長続きしやすいんだな。私だって、その典型。
一人でいればたいした期待も不安もないし、適度に慣れ親しんだ不満や不幸要素を持続して持ち続けることが出来るのだもの。
しかし最近思うのは、恋しく思うのが、インドのデリーの居候生活なのか、NYなのかわからなくなることがある。NYの一人暮らしを懐かしむことは、クラフトとかお絵かきが出来なくなったことくらいだけど、時々デリーでの居候生活が恋しくなるときがある。
人との距離が近くて、しんどいときもあったけど、みんな優しかったなあ。
まあ、彼らにしても外人(アメリカ在住の日本人)を家に泊めれるということはある種のステイタスだったんだろうなあとうすうすは感じていたけど。
なんかそんなことを考えていたら、80年代に高卒のデブが提唱していた
「自分をプロデュース」
見たいな事を思い出してしまった。
あれはつまり自分に値札をつけて、値踏みされることに慣れろ的な、「自分の商品価値を理解しろ→奴隷/娼婦としていくらになるのか考えてみろ」的な啓蒙ブームだったのかも。
プロデュースなんていう言葉を使うからおしゃれっぽいけど、自分で自分を査定しろ、値段つけて売れ、みたいなはなしだったんだなあ、とおもう。
まだ10代でおばかさんだったわたしは、その言葉の意味を一生懸命考えていたけど、まあ、おばかさんなりに考えた結果NYに来ちゃったからあれはあれでよかったんだな。
商品価値なんて、場所も時代も変れば変るもんなので、しかもそれは外からではなく自分としての満足感/まあこれでいいかな的な妥協と合わさってうまくそれがそろえば幸福度が上がるってもんでさ。
今日は朝ごはんはオートミールに。
暑いと体をあっためるものを避けがちなのだけど、そうすると足とかが冷えるから、穀物も食べなきゃね。
どうしても果物とかアイスクリームとかを食べちゃうんだよなあ。
もちでもいいんだけど。
こないだドンキで買った韓国餅(豆がいっぱいついててほの甘い)がすごくヒットして、これいくらでも食べれちゃうなあと思ってた。
そうだそういうものを朝食べれば元気になるんじゃない?
自問自答な朝。
風があると涼しくて眠れるわ。
常夏の国ハワイならではの話題ね~。
北国NYはもう寒いそうです。
昨日はゲイともフレンズの片割れジムにくっついてアラモアナ→チャイナタウン→ホームデポ→ウォルマート/サムズクラブにいったんだけど、サムズクラブってやたらとで買い物を売ってて、80インチのテレビとか買っている人がいて、下手したら私の部屋の壁よりでかいんじゃないかと。
あんたそんなに広い部屋に住んでいるんすか?と思ったけど、いるんだろうな、そういう人。
ジムは、周囲の雑音に消え入るような声で話すので、オープンエアの人ごみにいると何を言っているのかわからないときがある。大体内容は、昔の話か彼のパートナーの愚痴なので、たいしたことではないんだけど、やっぱり他の人たちから離れて住むと、いろんな意味で孤立化しちゃうのかも。
こっちを向いてサービス笑顔をしているときにはいいお顔なのだけど、気を抜いているときとか誰かと電話で話しているときの表情を見ると一体何が起こっているのだろうというような怖い顔になっている。
NYにいたとき私は、ご飯に呼べばNOとは言わない都合のいい人数あわせの友達だったんじゃないかと思う。
特に面倒をかけるわけでもなし、私の前では彼らは気軽にけんかも出来る。
そうやって考えると、NYで一緒に買い物をしたりどこかにいったりすることはほとんどなかったので、ハワイに移住するようになってからもっといろんな面で知り合うことが出来たんだなあと思う。
知れば知るほど結構驚くことばかりなのだけど・・・。
だからつい、ミューチュアルに用事が無いときは、時々断ってしまう。
以外に疲れるし、同じような話を聞くのもうんざりしてきた。
でも二人にとってはお互いが被害者のような関係の持ち方が持続しやすいのだろう。
まあ、誰でも似たようなもんだと思うけど。
期待も不安も大きくない、適度に不幸で不満を持ち続けることが出来る関係が長続きしやすいんだな。私だって、その典型。
一人でいればたいした期待も不安もないし、適度に慣れ親しんだ不満や不幸要素を持続して持ち続けることが出来るのだもの。
しかし最近思うのは、恋しく思うのが、インドのデリーの居候生活なのか、NYなのかわからなくなることがある。NYの一人暮らしを懐かしむことは、クラフトとかお絵かきが出来なくなったことくらいだけど、時々デリーでの居候生活が恋しくなるときがある。
人との距離が近くて、しんどいときもあったけど、みんな優しかったなあ。
まあ、彼らにしても外人(アメリカ在住の日本人)を家に泊めれるということはある種のステイタスだったんだろうなあとうすうすは感じていたけど。
なんかそんなことを考えていたら、80年代に高卒のデブが提唱していた
「自分をプロデュース」
見たいな事を思い出してしまった。
あれはつまり自分に値札をつけて、値踏みされることに慣れろ的な、「自分の商品価値を理解しろ→奴隷/娼婦としていくらになるのか考えてみろ」的な啓蒙ブームだったのかも。
プロデュースなんていう言葉を使うからおしゃれっぽいけど、自分で自分を査定しろ、値段つけて売れ、みたいなはなしだったんだなあ、とおもう。
まだ10代でおばかさんだったわたしは、その言葉の意味を一生懸命考えていたけど、まあ、おばかさんなりに考えた結果NYに来ちゃったからあれはあれでよかったんだな。
商品価値なんて、場所も時代も変れば変るもんなので、しかもそれは外からではなく自分としての満足感/まあこれでいいかな的な妥協と合わさってうまくそれがそろえば幸福度が上がるってもんでさ。
今日は朝ごはんはオートミールに。
暑いと体をあっためるものを避けがちなのだけど、そうすると足とかが冷えるから、穀物も食べなきゃね。
どうしても果物とかアイスクリームとかを食べちゃうんだよなあ。
もちでもいいんだけど。
こないだドンキで買った韓国餅(豆がいっぱいついててほの甘い)がすごくヒットして、これいくらでも食べれちゃうなあと思ってた。
そうだそういうものを朝食べれば元気になるんじゃない?
自問自答な朝。
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