自分は偉そうだなあ。
デッドエンドの思い出にいやみ評をしたにもかかわらず、昨日本を返しに行った図書館でまたよしもとばななを読みながら涙ぐむやつ。
いや、すぐ泣いちゃうんだよ私。
MMRも結核も問題なかったので、結果を書いてもらってお医者はおしまい。
暖かかったので、コパカパーナでも行こうかな、とおもって、サンライズマートでしょうが焼き丼を食べ、(ここのキムチ豚バーガーもとてもおいしい。豚肉を食べるならサンライズマートだわ)満腹になったところで、花火大会の混雑状態になっているタイムズスクエアを横切り、コパに行ってみた。したらばクラブは10時開始だとよ!お姉さんもうその時間には上がってます。
ところで、そう!ほんとにそうおもった。タイムズスクエアは花火大会状態なのね。
みんながぐるぐる変わる電飾の画面を楽しそうにワーッと立ち止まってみている。
楽しそうだけど通行の邪魔・・・そしてアメリカの田舎の人は横に大きい・・・。前に日本から直行便でなく経由便で母が来たとき、地方都市でトランジットだったらしく
「田舎の人は太っているね!NYの人はやせている!」といっていた。
NYの人はやせていないけど人間としての原型を保っているよね。ふとってても。
地方都市によくいるバーバパパとその一族みたいな人はあまりいない。
今朝目が覚めて、悲しくなくてよかった。
最近悲しかったのは、私にとって重要な変化とは、大事な誰かやうちの犬が死んでしまうことなんだな、とよしもとばななを読んでてわかった。
2007~2009年の連続喪失3年間は本当につらかったし、あそこに行くのはものすごくこわい。思い出すことも怖いときがある。思い出すとすごく深い穴に落ちてしまうような気がして。所々思い出すことはあると、泣いてしまう。
春は特につらい。
いろんなことが終わったり、なくしたりした後にぽっかりと暖かくなって、でも前にいたはずの人がもういない。
暖かかったり、桜や花が咲いていたり、きれいなのに、それを前に一緒に見ていた事のある人はもういない。
私は変わるのが怖いんだ。
大事な人がいなくなるのが怖い。
遠くにおいておけば、なくならないとおもってた。
なくなっても、私は大丈夫だとおもってた。
心の中で、あの人はいつもあそこにいる、と自己暗示をかけ続けられるから。
でも大事な人が亡くなることが重なって、遠くにおいておいても、なくなってしまってもいないことを感じざるを得ないことに気づく。楽しかったりきれいだったりする思い出は、その人がもういないことを思い出させる。
新しい思い出で上書きされないことを知っているから。
私がメキシコを経由して、NYにもどるまえ、ロンと桜の時期に夕方の散歩をしていて、近所の大きな桜の木の下にいたら、パパがやってきた。
「何でここがわかったの?」というと
「ロンがすきだから」といったのか、お散歩コースだからといったのかは忘れた。
そのとき持っていたデジカメで桜とロンをとっていたけど、パパのことはいつものように怒っていたからフレームに入れなかったような気がする。
でも、桜を見てい父の後姿や、大きな桜の木下でロンとおっかけっこをしているパパの映像は忘れない。
あのときに、許してあげられていたら
もっと許してあげられていたら
もっとそばにいられたかもしれない
でも自分に繰り返し言わなくては。
私は精一杯やった。できるだけのことをした。離れることが相手を傷つけないための精一杯だった。自分をこれ以上傷つけないための精一杯だった。わたしなりの。
桜の季節にはいろんなことを思い出す。
だから怖いのかもしれないな。
デッドエンドの思い出にいやみ評をしたにもかかわらず、昨日本を返しに行った図書館でまたよしもとばななを読みながら涙ぐむやつ。
いや、すぐ泣いちゃうんだよ私。
MMRも結核も問題なかったので、結果を書いてもらってお医者はおしまい。
暖かかったので、コパカパーナでも行こうかな、とおもって、サンライズマートでしょうが焼き丼を食べ、(ここのキムチ豚バーガーもとてもおいしい。豚肉を食べるならサンライズマートだわ)満腹になったところで、花火大会の混雑状態になっているタイムズスクエアを横切り、コパに行ってみた。したらばクラブは10時開始だとよ!お姉さんもうその時間には上がってます。
ところで、そう!ほんとにそうおもった。タイムズスクエアは花火大会状態なのね。
みんながぐるぐる変わる電飾の画面を楽しそうにワーッと立ち止まってみている。
楽しそうだけど通行の邪魔・・・そしてアメリカの田舎の人は横に大きい・・・。前に日本から直行便でなく経由便で母が来たとき、地方都市でトランジットだったらしく
「田舎の人は太っているね!NYの人はやせている!」といっていた。
NYの人はやせていないけど人間としての原型を保っているよね。ふとってても。
地方都市によくいるバーバパパとその一族みたいな人はあまりいない。
今朝目が覚めて、悲しくなくてよかった。
最近悲しかったのは、私にとって重要な変化とは、大事な誰かやうちの犬が死んでしまうことなんだな、とよしもとばななを読んでてわかった。
2007~2009年の連続喪失3年間は本当につらかったし、あそこに行くのはものすごくこわい。思い出すことも怖いときがある。思い出すとすごく深い穴に落ちてしまうような気がして。所々思い出すことはあると、泣いてしまう。
春は特につらい。
いろんなことが終わったり、なくしたりした後にぽっかりと暖かくなって、でも前にいたはずの人がもういない。
暖かかったり、桜や花が咲いていたり、きれいなのに、それを前に一緒に見ていた事のある人はもういない。
私は変わるのが怖いんだ。
大事な人がいなくなるのが怖い。
遠くにおいておけば、なくならないとおもってた。
なくなっても、私は大丈夫だとおもってた。
心の中で、あの人はいつもあそこにいる、と自己暗示をかけ続けられるから。
でも大事な人が亡くなることが重なって、遠くにおいておいても、なくなってしまってもいないことを感じざるを得ないことに気づく。楽しかったりきれいだったりする思い出は、その人がもういないことを思い出させる。
新しい思い出で上書きされないことを知っているから。
私がメキシコを経由して、NYにもどるまえ、ロンと桜の時期に夕方の散歩をしていて、近所の大きな桜の木の下にいたら、パパがやってきた。
「何でここがわかったの?」というと
「ロンがすきだから」といったのか、お散歩コースだからといったのかは忘れた。
そのとき持っていたデジカメで桜とロンをとっていたけど、パパのことはいつものように怒っていたからフレームに入れなかったような気がする。
でも、桜を見てい父の後姿や、大きな桜の木下でロンとおっかけっこをしているパパの映像は忘れない。
あのときに、許してあげられていたら
もっと許してあげられていたら
もっとそばにいられたかもしれない
でも自分に繰り返し言わなくては。
私は精一杯やった。できるだけのことをした。離れることが相手を傷つけないための精一杯だった。自分をこれ以上傷つけないための精一杯だった。わたしなりの。
桜の季節にはいろんなことを思い出す。
だから怖いのかもしれないな。
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