履歴をみてたら、昔の日記にぶち当たった。
まだAと住んでた頃の日記で、高校のときからの友達のことが書いてあったので、ここのところ連絡をしてなかったから、抜粋して送ってしまった。
わたしはこうやって、昔あんなに近かった人たちと次々と距離をとり続け、いったいどこに行こうとしているのだろうか。
別に、意図的にこうしてきたわけではないんだけど、いつの間にかこうなってしまった。
そういうことが、多分今切ない、と思うことなんだと思う。
エジャズのこと、というか、当時誰も話しを聞いてくれず、私も話せなかったあの頃の細かいことをセラピストに話していた。
そのおかげで、ちょっと昔の感じに戻っててつらい。
どうしてエジャズが好きだったのか、私がどのくらい共依存だったのか、見せ付けられるばかりで、きっと昔だったらそういう自分を馬鹿にしたり、嫌ったりしていたのだろうけど、回復のおかげさまで、同情を感じるばかりだ。
気の毒に。
私はそういう形でしか人とつながる方法を知らなかったのね。
やっとやっと、「そういう形」で人とつながらないことを覚えたけど、それは「それ以外の方法では人とつながる方法を知らない」ということが強調されてしまい、人とつながれない、対人恐怖症というか、人間関係アナレクシアになってしまった。
それでもいいんだけどね。
私の周りには、たくさんそういう人がいる。
子供がほしいと思ったのも、子供を持たないで、周りの人と強くそして健康的につながっている人がとても少ないからなのだ。
係わり合いがほしい。でも、まったくの他人と関わりあうのがつらい。バランスが取れない。でもそれだからといって、何の罪もない子供を杖にしてはいけない。
とおもって、子作りの話はまったくの保留。
心のどこかで、今でも、「いややっぱりエジャズとの間の子供を・・」とか思っていることがあるのだけど、それも今になって相手の言ってたことや、ゴアで起こったことを考えると、不可能だし、自分が傷つくだけなんだ、ということを認めざるをえない。
あの人は、奥さんに内緒にしていろんな事をして「僕もつらい」とか何とか言ってでも、そういうの平気な人だから。
私にとって一番つらく、飲み込むのが難しかったことは、私が自分で
「私のことを一番愛してて奥さんは二番目」
というような昔の言葉を今でも信じたいと思っていることだ。
そのことがとても悲しい。
そんなひとかけらの言葉のために、どこまででも言ってしまおうと思ってしまう自分が悲しいと思う。
たとえ、それが本当でも、あの人はその「一番」の愛情のために何かをしたわけではなく、自分に飛び込んできて尽くしてくれた奥さんとさっさと結婚してしまったわけだ。
つまり、結婚というのはあの人にとって、愛情とかそういうことではなく、いわゆる恋愛と結婚は別ね、ということと一緒なのだ。って、私だってそうだったし。
私を理解しようとしてくれたり、暖かくそばにいてくれたりしたあの短い期間のことは、私にとって今まで経験したことのないポジティブな経験だったから、何もかもを捨ててそのまま一緒にいたいと思うことは当然だった。
でも「あの人」という人、人格、あの人があの人を信頼していたビジネスパートナーやルームメイトにしてきたことをみてみれば、信頼することは危険な人だということはあの頃の私にだってわかった。
だから追いかけなかったけど、だけど私が心身ともにかれて死にそうになっているときに、与えてくれたやさしさや愛情は、私にはかけがえのないものだったし、今でもそうだと思う。
そしてだからこそ、こんなに時間がたっていても、あの人が私が好きな「あの人」でないとわかっていても、なかなか思いが断ち切れないんだと思う。そして、断ち切りたくないんだと思う。
あのころのことを話していたり、考えていると昔の気持ちに戻ってしまう。でも、ぎりぎりのところで相手を求めない。そのせめぎ合いがもしかしたら、自分と自分の間にできている親密な関係なのかもしれない。
まだAと住んでた頃の日記で、高校のときからの友達のことが書いてあったので、ここのところ連絡をしてなかったから、抜粋して送ってしまった。
わたしはこうやって、昔あんなに近かった人たちと次々と距離をとり続け、いったいどこに行こうとしているのだろうか。
別に、意図的にこうしてきたわけではないんだけど、いつの間にかこうなってしまった。
そういうことが、多分今切ない、と思うことなんだと思う。
エジャズのこと、というか、当時誰も話しを聞いてくれず、私も話せなかったあの頃の細かいことをセラピストに話していた。
そのおかげで、ちょっと昔の感じに戻っててつらい。
どうしてエジャズが好きだったのか、私がどのくらい共依存だったのか、見せ付けられるばかりで、きっと昔だったらそういう自分を馬鹿にしたり、嫌ったりしていたのだろうけど、回復のおかげさまで、同情を感じるばかりだ。
気の毒に。
私はそういう形でしか人とつながる方法を知らなかったのね。
やっとやっと、「そういう形」で人とつながらないことを覚えたけど、それは「それ以外の方法では人とつながる方法を知らない」ということが強調されてしまい、人とつながれない、対人恐怖症というか、人間関係アナレクシアになってしまった。
それでもいいんだけどね。
私の周りには、たくさんそういう人がいる。
子供がほしいと思ったのも、子供を持たないで、周りの人と強くそして健康的につながっている人がとても少ないからなのだ。
係わり合いがほしい。でも、まったくの他人と関わりあうのがつらい。バランスが取れない。でもそれだからといって、何の罪もない子供を杖にしてはいけない。
とおもって、子作りの話はまったくの保留。
心のどこかで、今でも、「いややっぱりエジャズとの間の子供を・・」とか思っていることがあるのだけど、それも今になって相手の言ってたことや、ゴアで起こったことを考えると、不可能だし、自分が傷つくだけなんだ、ということを認めざるをえない。
あの人は、奥さんに内緒にしていろんな事をして「僕もつらい」とか何とか言ってでも、そういうの平気な人だから。
私にとって一番つらく、飲み込むのが難しかったことは、私が自分で
「私のことを一番愛してて奥さんは二番目」
というような昔の言葉を今でも信じたいと思っていることだ。
そのことがとても悲しい。
そんなひとかけらの言葉のために、どこまででも言ってしまおうと思ってしまう自分が悲しいと思う。
たとえ、それが本当でも、あの人はその「一番」の愛情のために何かをしたわけではなく、自分に飛び込んできて尽くしてくれた奥さんとさっさと結婚してしまったわけだ。
つまり、結婚というのはあの人にとって、愛情とかそういうことではなく、いわゆる恋愛と結婚は別ね、ということと一緒なのだ。って、私だってそうだったし。
私を理解しようとしてくれたり、暖かくそばにいてくれたりしたあの短い期間のことは、私にとって今まで経験したことのないポジティブな経験だったから、何もかもを捨ててそのまま一緒にいたいと思うことは当然だった。
でも「あの人」という人、人格、あの人があの人を信頼していたビジネスパートナーやルームメイトにしてきたことをみてみれば、信頼することは危険な人だということはあの頃の私にだってわかった。
だから追いかけなかったけど、だけど私が心身ともにかれて死にそうになっているときに、与えてくれたやさしさや愛情は、私にはかけがえのないものだったし、今でもそうだと思う。
そしてだからこそ、こんなに時間がたっていても、あの人が私が好きな「あの人」でないとわかっていても、なかなか思いが断ち切れないんだと思う。そして、断ち切りたくないんだと思う。
あのころのことを話していたり、考えていると昔の気持ちに戻ってしまう。でも、ぎりぎりのところで相手を求めない。そのせめぎ合いがもしかしたら、自分と自分の間にできている親密な関係なのかもしれない。
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