円マークの話って流行だったの。それで来た人が大勢いた。
ふ~ん。
昨日はなかなか有意義な日だった。
って終わって気がついたんだけど。
朝、プロともの電話でおきて、一緒に朝ごはんを食べる。すごくすごく話が参考になった。彼女はとても優しい。回復を進めているACOAたちは他人に底抜けにやさしくなってしまうことがある。自分にも当てはまることだと思う。
自分に対して異様に厳しく、というか、自分への期待は異様に高いが、あまりにも周りに機能しない人々が多かったため、他人への期待度が異様に低くなってしまうのだ。
それに気づかないまま人間関係を続けていると、恨みが発生してくる。
自分の他人に対する境界線や期待度の低さ、それが結局相手に利用されてしまい、でもその発生源をみきわめる習慣がないので、わけのわからない怒り、とかそういう風になってしまうのだ。
そしてその恨みを抱えたことに罪悪感を持ち、さらに自分を攻撃してしまう。
たとえば「この人はもとからこうだったのに、何でいまさら自分が怒っているんだろう」
とか
「この人に期待している自分がいけないんだ」
とかそういう言葉で自分を攻撃する。
自分が利用されたり、言葉や態度で辱めを受けていることを直視できない。
気づいても意識をそらしてしまう。
相手の行動に直に落ち着いて対処をする方法を知らない。自分がはずかしめを受けていると言う現実に対して自分を攻撃するので二重につらくなってしまい、何もいえないか、激昂してしまうかのどちらかになってしまう。
それがACOAならびに機能不全家族で育った人のキャラクタリスティックでもある。
もうそのとおりで。
私が気をつけなくてはいけないのは、そういうこと。自分にとってあらかじめ知識として理解している十分ではない状況に足を踏み入れてはいけない。たとえ相手のことが「大好き」でもだ。
大体こういうときの「大好き」は相手が親のように慣れ親しんだ相手だからなのだ。
ACOAにとって、「親のように慣れ親しんだ人格」と言うのは自分を破壊してきた人物にくりそつであるということに他ならない。
通常、比較的安全な親の元で育った人は、親を思い出させる人物=好きな人=安全な人ということになるのだが、機能不全、虐待等があった家庭で育った人にとって、親に似ている=ストックフォルム・シンドローム状態 ということになってしまう。
だからACOAは親密な関係に苦しむのだ。
慣れ親しめない人は好きになる対象にはならない。でも慣れ親しんだ人は自分を破壊してしまう人である。
恋愛関係が難しいのはだからこそなのだ。
私個人の責任でそれを直さなくてはいけないと思っても、原因は私が作ったものではないので、しかもそこで育ってきてその傷を見ないようにしないと生きていけなかったため、その傷を認識することも難しい。
堂々巡りになってしまう。
堂々巡りをしているような気になってくる。
・・・・・。
とにかく。
その後鍼灸を習っている友達と電話をし、鍼治療に行き、ミーティングに行き、別のプロともと話をして一日が終わった。
おかげで朝からいろんなことに気づいた。午前中はそのおかげで少し苦しかったけど、腰のカイロのおかげ、昼休みの電話の嵐もあり、今は落ち着いている。
今日はよその州から来ているお友達と会う。
神様はちゃんと私にしなくちゃなんないことを与えてくれるのだ。
ふ~ん。
昨日はなかなか有意義な日だった。
って終わって気がついたんだけど。
朝、プロともの電話でおきて、一緒に朝ごはんを食べる。すごくすごく話が参考になった。彼女はとても優しい。回復を進めているACOAたちは他人に底抜けにやさしくなってしまうことがある。自分にも当てはまることだと思う。
自分に対して異様に厳しく、というか、自分への期待は異様に高いが、あまりにも周りに機能しない人々が多かったため、他人への期待度が異様に低くなってしまうのだ。
それに気づかないまま人間関係を続けていると、恨みが発生してくる。
自分の他人に対する境界線や期待度の低さ、それが結局相手に利用されてしまい、でもその発生源をみきわめる習慣がないので、わけのわからない怒り、とかそういう風になってしまうのだ。
そしてその恨みを抱えたことに罪悪感を持ち、さらに自分を攻撃してしまう。
たとえば「この人はもとからこうだったのに、何でいまさら自分が怒っているんだろう」
とか
「この人に期待している自分がいけないんだ」
とかそういう言葉で自分を攻撃する。
自分が利用されたり、言葉や態度で辱めを受けていることを直視できない。
気づいても意識をそらしてしまう。
相手の行動に直に落ち着いて対処をする方法を知らない。自分がはずかしめを受けていると言う現実に対して自分を攻撃するので二重につらくなってしまい、何もいえないか、激昂してしまうかのどちらかになってしまう。
それがACOAならびに機能不全家族で育った人のキャラクタリスティックでもある。
もうそのとおりで。
私が気をつけなくてはいけないのは、そういうこと。自分にとってあらかじめ知識として理解している十分ではない状況に足を踏み入れてはいけない。たとえ相手のことが「大好き」でもだ。
大体こういうときの「大好き」は相手が親のように慣れ親しんだ相手だからなのだ。
ACOAにとって、「親のように慣れ親しんだ人格」と言うのは自分を破壊してきた人物にくりそつであるということに他ならない。
通常、比較的安全な親の元で育った人は、親を思い出させる人物=好きな人=安全な人ということになるのだが、機能不全、虐待等があった家庭で育った人にとって、親に似ている=ストックフォルム・シンドローム状態 ということになってしまう。
だからACOAは親密な関係に苦しむのだ。
慣れ親しめない人は好きになる対象にはならない。でも慣れ親しんだ人は自分を破壊してしまう人である。
恋愛関係が難しいのはだからこそなのだ。
私個人の責任でそれを直さなくてはいけないと思っても、原因は私が作ったものではないので、しかもそこで育ってきてその傷を見ないようにしないと生きていけなかったため、その傷を認識することも難しい。
堂々巡りになってしまう。
堂々巡りをしているような気になってくる。
・・・・・。
とにかく。
その後鍼灸を習っている友達と電話をし、鍼治療に行き、ミーティングに行き、別のプロともと話をして一日が終わった。
おかげで朝からいろんなことに気づいた。午前中はそのおかげで少し苦しかったけど、腰のカイロのおかげ、昼休みの電話の嵐もあり、今は落ち着いている。
今日はよその州から来ているお友達と会う。
神様はちゃんと私にしなくちゃなんないことを与えてくれるのだ。
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