¥マークってのは嘘で 円 じゃんか。

日銀を見てたら、パパが昔働いてたとこの近くだった。
私は確か高校生くらいの頃、京橋の展覧会を見に行くといったら、パパが京橋は近くだからお昼ご飯食べさせてあげるからおいで、と言われたので、制服のまま日本橋方向に行ったら道に迷った。

半泣きで怒りながら(当時は携帯ないですから)パパの会社に電話して、わかんない!つかれちゃった!と言ったらなんか笑われて、今どこにいるの?といわれ、見えるのはこことここ、と言ったらそのまままっすぐ行ってどこそこの角で待ってて。と言われて結構歩いてそこまで行ったのにまたまたなくちゃなんなくて、パパが来たときには猛烈に疲れてた。(そして怒ってた)

そんでどっかのうなぎやさんかなんかに連れてかれたけど、高い割には大しておいしくなくて、パパはいつもこういうもの食べているんだ~。とおもった。
そのなかには多分、ママがいつもつましくしている恨みや、高い割には狭くて居心地の悪い日本橋のえらそうな店にありがたがって行っているパパとか、他のサラリーマンの人のなんていうか、あの頃はなんて呼ぶのかわからなかったけど、今私の知っている言葉ではdeprivation を感じた。

インドにいって思った言葉はdeprivation, だった。
貧しさと言うのは、お金のことではない。快適さ、居心地のよさのないこと。
快適さと居心地のよさにたくさんの代償が必要とされる場所はdepriveされているのだ。NYもかなりdepriveされてますが。

わたしはもうあまりdepriveされたくない。
とはいえ、deprive まだまだされているNYに住んでいるのだからあまり大きなことは言えないけど。

少ないものを奪い合うから、せこいかなしい争いになるのだ。
そこから身を引けば、そのせこい悲しい争いからは離れられる。
あとは私のなかにあるせこい悲しい争いの中に何か大切なものがあると言う信条から自由になれればいいのだ。

小さな幸せは確かにある。
でも、自分が快適でなくてどうやって小さな幸せを感じることができるのか。

自分を幸せにすること。
もう少しフォーカスを定めなければ。

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