ええ。インドから。
よく泣いたたびでした。
泣かされてたわけじゃないよ。
思い出し泣きをしてばかりいた。
あたしってさ、こんな子だったんだ、エジャズの前では。
そして15年の月日を経て、またその子に逆戻りをして泣きじゃくってばかりいた。
それは、悲しみというより、センチメンタリズムだったり、うれし/かなしかったりすること。
たとえば、手を握ってて、独特の感じに私の小指のつめをもてあそぶその手の握り方を、ああ、エジャズだ。と自分が覚えていたことを発見することみたいに、一緒にいたときのことを思い出すときに、うれしさと悲しさが同時にこみ上げてきて、涙になって出てくる。
私たちは親密になる代わりに、手を握っていることにしたので、その手の感触とか、腕の毛の感触とか、そういうことを触れていて、自分が覚えていることを確認するたびに涙が・・・。
小さなことだけど、忘れてしまったと思ってたことを自分が覚えていることに気づくたびに、涙が出てとまらなかった。
あの人のことが大好きで、一緒にいると自分が消えてしまうのが怖くて。
私がエジャズと一緒にいたときにしていたことは、二人でいかに会えるように時間を作るかとか、そういうことのためにだけのことをしていた。
アートも、自分の好みも、何もかもをわすれて。
9月のある日、彼が突然いなくなったときに、何もない自分に気づいた。
そのときに残っていたのがNYに行くことだった。
私の理解を超えたことを隠していたエジャズは、私にゴアに会いに来てくれと繰り返しせがんだけど、エジャズのことを好きすぎた私は、会いに行ったら自分が戻ってこないことをわかってた。離れられないことをわかってて、エジャズのためだけに生きてしまうことをわかってたから、行かなかった。いかない私を責めて、飲んだくれて自己破壊的になっていく彼を遠くで感じていて、私は彼を手放すしかなかった。
今回のたびでも何度も何度も繰り返し責められた。
何度も説明をした。
ほかの人と結婚したのはあんたでしょう?私は誰とも結婚しなかったよ、あれから10年もたつまで。
そういう甘えたところは相変わらずで、問題はそれを許してしまう私で。
もう、かんがえなくていい。
終わったから。
よく泣いたたびでした。
泣かされてたわけじゃないよ。
思い出し泣きをしてばかりいた。
あたしってさ、こんな子だったんだ、エジャズの前では。
そして15年の月日を経て、またその子に逆戻りをして泣きじゃくってばかりいた。
それは、悲しみというより、センチメンタリズムだったり、うれし/かなしかったりすること。
たとえば、手を握ってて、独特の感じに私の小指のつめをもてあそぶその手の握り方を、ああ、エジャズだ。と自分が覚えていたことを発見することみたいに、一緒にいたときのことを思い出すときに、うれしさと悲しさが同時にこみ上げてきて、涙になって出てくる。
私たちは親密になる代わりに、手を握っていることにしたので、その手の感触とか、腕の毛の感触とか、そういうことを触れていて、自分が覚えていることを確認するたびに涙が・・・。
小さなことだけど、忘れてしまったと思ってたことを自分が覚えていることに気づくたびに、涙が出てとまらなかった。
あの人のことが大好きで、一緒にいると自分が消えてしまうのが怖くて。
私がエジャズと一緒にいたときにしていたことは、二人でいかに会えるように時間を作るかとか、そういうことのためにだけのことをしていた。
アートも、自分の好みも、何もかもをわすれて。
9月のある日、彼が突然いなくなったときに、何もない自分に気づいた。
そのときに残っていたのがNYに行くことだった。
私の理解を超えたことを隠していたエジャズは、私にゴアに会いに来てくれと繰り返しせがんだけど、エジャズのことを好きすぎた私は、会いに行ったら自分が戻ってこないことをわかってた。離れられないことをわかってて、エジャズのためだけに生きてしまうことをわかってたから、行かなかった。いかない私を責めて、飲んだくれて自己破壊的になっていく彼を遠くで感じていて、私は彼を手放すしかなかった。
今回のたびでも何度も何度も繰り返し責められた。
何度も説明をした。
ほかの人と結婚したのはあんたでしょう?私は誰とも結婚しなかったよ、あれから10年もたつまで。
そういう甘えたところは相変わらずで、問題はそれを許してしまう私で。
もう、かんがえなくていい。
終わったから。
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