でもぱっと見いいけど。よく見たらしみと切れ目が入っていた。
そんなシルクのスカート、いいんだけど、背筋も伸びていいんだけど、とにかく腹が苦しい。

そうだ昨日何か書いたんだけどすっかり忘れてたんだ。

何を書いたんだろう・・・・。
しかしながら今日はびっくりニュースがあった。同僚がやめると。俺、トレーニングとかいろいろ教えたのにな。まあいいけど。あの、わたしも呼ばれたパーティの席で紹介された”彼氏”と結婚する様子。彼氏、同僚に隠れてこそこそとほかの女の子の電話番号聞いてたんだけど・・・。それが5ヶ月前の話だけどさ・・・。へーーーー・・・。そういう人と結婚すんだあ・・・。

わざわざ言うほど親しくなかったので何もいわなかったけど・・・。


・・・。何も言わないけどね。


ま、俺には関係ない。ただこうやって人がやめていくと、「俺何やってんのかなあ・・・」と思う。

******
とはいえきっと俺はどこにいてもそう思うんだろうな。
ああ、ネガティブループに陥ってはいけない。


でもついまたAに電話してしまった。
Aの調子はよくて、床磨きの仕事をさせられてるとのことだ。(文の最初と終わりがつながらない。)あの人は手先の人だから肉体労働とかがやっぱり向いているらしい。
給料安くてもオフィスに座っているよりいいんだって。
判る気がする。

あの人が落ち着いているときの声で慰められるとわたしはとても元気になる。
あの人はわたしにとっていてほしい親兄弟なんだなと思う。
Aのお母さんは50歳半ばのAのことをいつまでも子ども扱いで、夜遅くなると怒るらしい。
でもAのお母さんはあまり話せないし、小さくてかわいいので、そんな小さいお母さんに少し困ったように控えめに怒られるAの姿を想像するのもかわいいと思う。

お母さんはきっと心配なんだな。車だしね。

80歳半ばになって、50歳半ばの子供の心配をして怒る親はなんだかほほえましいと思う。
そんで怒られて、ちょっといやになる君(A)はどうよ・・と思うけど。

でもきっとわたしも遅くなると母がいやな顔をするのを見るのがいやなのと一緒なのかな。
わたしはAのお母さんとか好きなので(別に母が嫌いじゃないけど、結構いやみったらしく怒るんだよね)Aのお母さんにちょっとぺしっとかされたりすると(お菓子を先に食べたりすると、お母さんはわたしの手をぺしっとはたいたりしてた)ちょっとうれしかったんだけどな。


きっとわたしと母の間には深くて深い溝があるのだ。
わたしが母からの扱いを拒絶してからというもの(大体10歳くらいのとき)長いバトルが続いた。

わたしはきっと母がわたしを愛していてくれるという確信があったからバトルをすることができたのかもしれない。
我が家では、親密感は争いで表現されることも多々あったからね。

暴力は親密さの一種である、というショックな言葉を忘れることはできない。

わたしのは母というと、私のことがわからない、ということを少なくとも認め、わからなくていいのだというところに落ち着いているんだと思う。それはある意味での許容なんだけど同時に諦念でもある気がする。それでもプログラムの仲間の親のパターンに時折あるように、離れていく子供を攻撃するようなことはしないでいてくれた。

母がわかってくれないということで、幼稚なわたしは母を責めることはよくあったけど、それも仕方がないとあきらめることが大人になることなんだということを知った。

今朝の夢は母とどこかに行く夢だった。

昨日は朝、カラパンをしてたら父のことを思い出して泣いてしまった。
結婚後NYに旅立ったわたしは、父を捨ててAのもとに行ったのだけど、それがいろんな意味での別れになってたんだなあと思った。

父とのことで泣くときは、この関係がもっと違うものであったらよかったのに、と思う気持ちでなくのだけど、同時にわたしに変えられるものではなかったんだという認識が同時に湧き上がる。
でもわたしは何かできたのではないかとおもう。
そして、わたしにはあの時どうしようもなかったのだ、できるだけのことはしたのだ、NYにおいでとも言えたのだ、ということを繰り返し自分の頭に叩き込む。

人との関係で私自身が何かできることなんかあるのだろうか。

「何か」をしても、その「する」という行為をするときは、関係自体の破綻は目に見えているのじゃないかと思う。「なにかをする」、「しよう」とおもってするときはもうその時点でそのこと自体の真実性はなくなってしまっているのではないか。


いや、関係が存在している時に、相手のためにすることはある程度は必要なことだと思うのだけど。そのことが引っかかってしまってできなかったりすることは、そのできないということが真摯な態度の表現なのかなとおもう。

だから何もできないときは、何もいえないときは、そのとおりにすることが、相手にとっても自分にとっても一番適したことなんだと思う。

こないだいらないものを処分して、いらないけど感情的な愛着だけがある思い出の品の量の多さに困った。多分、半分くらいわたしの持ち物のを占めているんじゃないの?というか実質的に使っているものを除けばもしかしたらすべて、すべてがemotional attatchment の価値だけで持っているんだと思う。

それの何が悪いんだ?とも思う。

でも
かわらないものなんてなんにもないけど、
変わるスピードが違ったんだな。

スピードとナイフは好きだ。


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