抜け出すために
2008年3月3日アパートで一人でいると、なんだか見えない何かにとらわれているような、そしてそれと戦っているような、でも何の手ごたえもなく、堂々巡りをしているような気がする。
プログラムの友達達に電話をかけまくって、メッセージを残したり、話をしたり、電話ミーティングを聞いたりしていた。
今日は少しカラーパンクチャーをして持ち直したせいか、ご飯もたいて食べたし、掃除もしたし、洗濯も出来た。
抜け出したい、とメールを送っていて、どうすればいいのかわからないとかいていて、あとでどうすればいいのかわかっていることに気づいた。
終わったことを認めればいいのだ。
もうAに電話してはいけないのだ。
わたしが助けを求める相手ではないのだ。
プログラムの友人と話してて、
「それは君がコンフォタブルな痛みを求めていたからだよ」
「猫にほえろっていう?
いわないでしょう?
どうして?
できないから。
助けてくれない人に助けてということは、自分にさらに痛みを与えることだよ。それを君はいずれやめると思う。でもそれをやめるのは君自身だ。
求めて与えられない痛みは慣れているのかもしれない。
でもそれはやめなくては欲しいものはえられない。
求めたものがえられないとわかっている相手に求めること自体が、自分の欲しいものを遠ざけることになるんだよ。
一人でアパートにいると目に見えないものと戦わなくてはならないようで、でもそれはなんなのかすらさえわからなくなってくる。
この文章を書いている間にプログラムの友達に電話した。彼女と小一時間話して、安心した。彼女も父をなくしたとほぼ同時にそのとき一緒にいた人と別れなくてはならなかったらしい。
二つの喪失を一度に味わうのは、どちらの喪失感や悲しみがどちらなのかわからなくなってくる。わたしには、過去一年以上のAとの関係のなれた喪失のプロセスがあるから、それにしがみついているのかもしれない。
新しい喪失、父をなくしたこと、はまったく新しいことでどう考えていいのかすらさえわからないような気がする。
確かに家族の上にのしかかってた心理的な不安や負担のようなもの、いつか爆発するかもしれないものに対する不安は一旦鳴りを潜めたかもしれないけれど、それは次の爆破を予期させるようなことであり、それに対してどう対処をしていいのかなんてよくわからない。
わたしははなれていることもあって、実際の事が目の前で行われていない分、どこか掛け金が外れたような宙ぶらりんの感覚を持ってぼんやりしている。
日本にいて家族と一緒に対応していたほうが、まだ現実感があったのだけど、線香のにおいといくつかの写真を祭壇のように棚に飾ったことを除いては何も変わらないこの部屋にいて、本当に何に対する喪失感を、なにおいったい自分が感じているのかすらさえわからなくなる。
幸い、彼女と話している間、私が何をかんじているのか、どうすればいいのか、現実感がなくてよくわからない、といったことばに
「わからなくちゃいけないのかしら?」
と答えてくれる。
わからなくてもいいのだ。
プロセスなのだから。
「今回初めて父親を亡くしたんだから、わからなくて当然でしょう?」と彼女も彼女が父をなくしたときに言われた言葉を伝えてくれた。
わからなくて当然。
わからないのが当然。
日本にいて、父の遺骨があれば、それに対して泣く事も出来たけど、今それすらも不在の状態で泣く事もはばかられる気がする。
私は二年間も父に会ってなかったじゃないの
泣く資格があるの?
自分で選んで行かなかったんじゃないの。
何を泣くの?
そんな言葉がわたしの悲しみをさえぎる
それでも父は私にとって大きな存在だった
わたしは感情的に頼ることがなかなか出来なかった父のかわりに、酔った彼の口から何が飛び出してくるかわからなくて戦々恐々としていた父ではない存在を求めたということが、Aとの関係のコアとなって残っている。
わたしを守って、受け入れて、励まして、愛して欲しい。
Aはもうわたしを以前のように近くにいてくれないけど、でも私にしてみれば、相手を責めた電話と助けを求めた電話にメールで
「僕には助けることは出来ない。君自身が通り抜けなくてはいけない。君にはその強さがあるから、何とか通り抜けて欲しい」
という返事をもらえた事がうれしいのだ。その言葉に一言だけthank you という言葉を送れることもうれしいのだ。
それは、彼女という名のAの生活において取替えの効くパーツの役割をしていたころよりも、その役割を担うことでえられた言葉よりも、本物のように思えるのだ。少なくとも、わたしを失わないように、という下心から出た言葉より、真実の言葉であるのだ。
錯覚かもしれないけど。
わたしとAのホロスコープはお互いがお互いの親のようにはぐくみ合える関係を持っていることを示している。肉体的にではなく、惹かれあうものを持っているとも示している。同時に、あまりに正反対なため、理解する事が難しく、また恋人としての関係は短いものに終わり、同居はうまく行かないということも示している。
だから今はパーフェクトな関係なのだ。
少なくともわたしにとっては。
父をなくしたことについて色々とでてくることは、わたしの内外に関しては予想も出来ないことばかりだけど、そのときに出来ることをしていくことしかないのだから。
プログラムの友達達に電話をかけまくって、メッセージを残したり、話をしたり、電話ミーティングを聞いたりしていた。
今日は少しカラーパンクチャーをして持ち直したせいか、ご飯もたいて食べたし、掃除もしたし、洗濯も出来た。
抜け出したい、とメールを送っていて、どうすればいいのかわからないとかいていて、あとでどうすればいいのかわかっていることに気づいた。
終わったことを認めればいいのだ。
もうAに電話してはいけないのだ。
わたしが助けを求める相手ではないのだ。
プログラムの友人と話してて、
「それは君がコンフォタブルな痛みを求めていたからだよ」
「猫にほえろっていう?
いわないでしょう?
どうして?
できないから。
助けてくれない人に助けてということは、自分にさらに痛みを与えることだよ。それを君はいずれやめると思う。でもそれをやめるのは君自身だ。
求めて与えられない痛みは慣れているのかもしれない。
でもそれはやめなくては欲しいものはえられない。
求めたものがえられないとわかっている相手に求めること自体が、自分の欲しいものを遠ざけることになるんだよ。
一人でアパートにいると目に見えないものと戦わなくてはならないようで、でもそれはなんなのかすらさえわからなくなってくる。
この文章を書いている間にプログラムの友達に電話した。彼女と小一時間話して、安心した。彼女も父をなくしたとほぼ同時にそのとき一緒にいた人と別れなくてはならなかったらしい。
二つの喪失を一度に味わうのは、どちらの喪失感や悲しみがどちらなのかわからなくなってくる。わたしには、過去一年以上のAとの関係のなれた喪失のプロセスがあるから、それにしがみついているのかもしれない。
新しい喪失、父をなくしたこと、はまったく新しいことでどう考えていいのかすらさえわからないような気がする。
確かに家族の上にのしかかってた心理的な不安や負担のようなもの、いつか爆発するかもしれないものに対する不安は一旦鳴りを潜めたかもしれないけれど、それは次の爆破を予期させるようなことであり、それに対してどう対処をしていいのかなんてよくわからない。
わたしははなれていることもあって、実際の事が目の前で行われていない分、どこか掛け金が外れたような宙ぶらりんの感覚を持ってぼんやりしている。
日本にいて家族と一緒に対応していたほうが、まだ現実感があったのだけど、線香のにおいといくつかの写真を祭壇のように棚に飾ったことを除いては何も変わらないこの部屋にいて、本当に何に対する喪失感を、なにおいったい自分が感じているのかすらさえわからなくなる。
幸い、彼女と話している間、私が何をかんじているのか、どうすればいいのか、現実感がなくてよくわからない、といったことばに
「わからなくちゃいけないのかしら?」
と答えてくれる。
わからなくてもいいのだ。
プロセスなのだから。
「今回初めて父親を亡くしたんだから、わからなくて当然でしょう?」と彼女も彼女が父をなくしたときに言われた言葉を伝えてくれた。
わからなくて当然。
わからないのが当然。
日本にいて、父の遺骨があれば、それに対して泣く事も出来たけど、今それすらも不在の状態で泣く事もはばかられる気がする。
私は二年間も父に会ってなかったじゃないの
泣く資格があるの?
自分で選んで行かなかったんじゃないの。
何を泣くの?
そんな言葉がわたしの悲しみをさえぎる
それでも父は私にとって大きな存在だった
わたしは感情的に頼ることがなかなか出来なかった父のかわりに、酔った彼の口から何が飛び出してくるかわからなくて戦々恐々としていた父ではない存在を求めたということが、Aとの関係のコアとなって残っている。
わたしを守って、受け入れて、励まして、愛して欲しい。
Aはもうわたしを以前のように近くにいてくれないけど、でも私にしてみれば、相手を責めた電話と助けを求めた電話にメールで
「僕には助けることは出来ない。君自身が通り抜けなくてはいけない。君にはその強さがあるから、何とか通り抜けて欲しい」
という返事をもらえた事がうれしいのだ。その言葉に一言だけthank you という言葉を送れることもうれしいのだ。
それは、彼女という名のAの生活において取替えの効くパーツの役割をしていたころよりも、その役割を担うことでえられた言葉よりも、本物のように思えるのだ。少なくとも、わたしを失わないように、という下心から出た言葉より、真実の言葉であるのだ。
錯覚かもしれないけど。
わたしとAのホロスコープはお互いがお互いの親のようにはぐくみ合える関係を持っていることを示している。肉体的にではなく、惹かれあうものを持っているとも示している。同時に、あまりに正反対なため、理解する事が難しく、また恋人としての関係は短いものに終わり、同居はうまく行かないということも示している。
だから今はパーフェクトな関係なのだ。
少なくともわたしにとっては。
父をなくしたことについて色々とでてくることは、わたしの内外に関しては予想も出来ないことばかりだけど、そのときに出来ることをしていくことしかないのだから。
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