ふわー

2008年1月16日
まあそういうことだ。

この病気の根源は自己憎悪。

わたしがAと別れたあと、前にもまして追いかけたのは、

「明らかに私のほしいものをくれない人」

だとわかってたからだ。

自己憎悪をサポートしてくれる外的要因が必要だった。きれいなことを言って、友達でいよう、君の幸せを願っているなんていってくれることが耐えられなかった。

一緒にいることも耐えられないが、離れていることも耐えられないのだ。

なぜならAがいなくなれば私はどの外的要因を責めればいいのか解らなくなり、その矛先が一番向けたくない自分に向いてしまうから。

Aはサンドバッグだった。

そのことについては何度もわびたけど、お互い様だと思ってもいた。

お互い様だけど、私のしたことは私のしたことだ。

Aが私を選んだのは、感情的に近くなりたくなかったからだ。
であったとき、関係が深まっていったとき、私は回復の二次的な初期だった。セラピーを何年か受けて、自助グループにつながりだして、もうひとつ別の展開を開けてたときだ。
そのときの私は仕事ができないくらい、感情的にいっぱいいっぱいだった。

そんな私を引き受けてくれたのは、私に対する愛ではなく、Aの共依存だった。でもそれは私にとっては神の助けくらい、輝かしかった。うれしかった。

自分を受け入れることができず、苦しんでいるときに、Aがいいよ、たいしたことないじゃない、と受け入れてくれたのだ。
それが私にとっては大きな支えになった。

Aは私がよれよれになっているのを見過ごすことができなかった。

でもそれは愛ではなかった。
その「支え」は続いていくのだけど・・・

しかしよく愛もないのにあそこまでできたもんだ・・・・。

そんで、結局破綻する。
そりゃそだな。

うわー。

私が何で愛してくれないの?といい続けてたのも解る気がする。与えられたものだけで満足することはできなかった。
そこには対等な関係はなく、共依存だけが存在してたから。

私には、借りを作ったという罪悪感で、そして、Aは私に対して、自分にどうしてこんなことをさせたんだ、という怒りで、満ちていた。

多分、ここがポイントだった。
Aの怒りが出てきたあたりが、軌道修正をすることが可能な時期だったけど、私は自分と相手を責めて、背を向けることしかできなかった。

Aの感情の面倒は見れなかった。

ふう。

いまはAは幸せなのだから、いいのだね。

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