サルサ

2008年1月8日
昨日は整理とか(主にオブセッションとか)でどんよりしてたのだけど、サルサのソーシャルがあるというので久しぶりに出かけてみた。

ソーシャルで踊っている人はもう最近はソーシャルしか行かないのかな?というくらいバリバリみんな踊ってた。
クラブではもう見かけないなあこういう人種。

最初はチャチャチャを踊ったけどほとんど乗れず、ぼちぼちって感じだったのだけど、中盤からかなり油が乗ってきて次々と踊る。

踊るたびにゼイゼイしてしまうのだけど、途中で座って休んでそれからまた踊る。

ソーシャル来るのは3年ぶりくらいになるのだけど、変わってきたのは昔はおとこが勝手に踊る女性を選んでたけど最近はこっちからおどろ、というとみんな快く踊ってくれる。

進歩だなあ、と思う。

3年もご無沙汰しているのに、知っている顔がいくつもあって笑える・・。
その一人と話してたけど、何かかわったことある?と聞くと、何かも変わらないよ、古い人がいなくなって新しい人が入ってくるだけで。
後は古い人は彼氏と別れると戻ってくる、と笑ってた。

あまりにもその通りなので思わず私も笑う。
結婚してたんだよね、といいそうになるけど、そんなのもどうでもいい気になってくる。

人生は回るのか。

どんどん知らない人とも踊って、なんか懐かしくなってきた。
最後のダンスは昔時々踊ってた、背のちいちゃいけどがっしりしたアフロヘアのエリック君(だったと思う)と踊った。

彼は、私に
「こういう体格の人もいいな・・・」と思わせてくれた第一人者なのだった。
それがAへと発展してったような気がする。

エリック君は、私をとーーーーーーーーーーーーーってもセクスィーな気持ちにさせてくれるのだ。
何でだろうねえ。

一発やるべきなのか?

でも彼は踊っているときはとってもやさしく感じがいいんだけど、普通にしているときはとっても目つきが怖く、人相悪い。前より人相悪くなった。

そういうところもAに共通するのだろうか。

そういう人が私は引っ張られてしまうのかもな。

惹かれる相手と、自分を幸せにしてくれる相手が異なる場合、関係を始めるのはいつも難しい。

昨日はlove addictionの本を読んでて、自分の行動のそれがまったくその症状に当てはまることに気づいた。

わお。

だからこそうまくいかなかった、ともいえるけど、Aの言うようにお互いにとってお互いはよい相手ではなかったのかもしれない。ひきつけあう力はとても強かったけど。

ひきつけあう力が強かったからこそ、お互いの弱点や短所がむき出しになってしまった。
それを成長へと結びつけるのは、お互いが一緒にいてはできなかった、といわれるけども。

多分正しいのだろう。

私もAと戻ろうといいながら、自分を変えるつもりは毛頭ない。相手に変わってほしいと思っている。でも、それはもうその時点で間違っている。

相手を求めているわけではないのだ。

たとえばAが私のアパートに来たらどうする?と思ってみる。

私は、「いやだ」と思った。
この平和な空間をAのいらだった空気で乱されたくない、と思った。
それがなくなるのならば、それをそぎ落としてくれるのならば。
でもそれはきっと無理。

それはきっと無理。

彼が一人でいなくてはならない理由は、そのhostileな波を人に浴びせてしまうからなのだ。
私はまともにかぶって、その反撃として私自身もとても攻撃的になっていった。

傷つけられたら、一旦離れて、話し合うことができることが理想的なのだ。
傷つけれたら戦うのではなく。
愛しあうべき関係なのに、戦争を起こすということは、お互いの関係にとって良いことではないのだ。

戦争は負傷者しか生まない。
恋愛関係であっても同じなんだろう。

そうは思えても、過去に起こったことは変えられず、あの一番辛いときに一緒にカウンセリングを受けていれば何とかなったかもしれないと思う気持ちが湧き上がる。
でもそれができないほど私は傷ついていたのだ。
それができないほど私は辛かったのだ。
何とかして生き延びようとして必死だったのだ。
あの環境から逃げ出すこと、自分の心のそこでは離れたくないと思いながらも、その自分を救うことで精一杯だったのだ。

そのことを思おう。
そのことを感謝しよう。
自分を救えた自分に感謝をしよう。

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