10月22日の日記
2007年10月22日今日ぼんやり思ったのは、
すこしづつ地の自分というものを周りの人に見せだしてきているのかもしれないということ。
Aに執着するのは、Aにだけ見せる赤ちゃんな私というのがあって、それはほかの人には見せられなくて、だからそれを見せられるというか、解放できる相手であるということで執着するんかいな、ということ。
つまりもっともっと地の自分を出せる人を増やしていけば、私のAへの執着はへるんだろうなという予感。
私の本来の傾向として、みんな大好き、というか、特定の人を必要としない愛情というものがある。博愛主義というか、男女老若とわず、個人という枠を超えた部分での愛情というか。
ていうか、誰でもなく誰でもいいという部分。
もちろん性愛とは全然異なった感覚。
ああやって大勢と踊ったりしているとほんとそういう気持ちになれるんだよね。それにあれはひとつのコミュニティだから、顔だけでも見たことのある人は沢山いるし。
そういうところで解放できる自分は気持ちがいい。
そういうことだなあ。
後は、自分を見せる恐怖というものをどれだけ克服していけるか。
それは、あのようなある程度の規制を持った中での人たちの中で練習していけばいいんだな、と思った。
うんうん。
プログラムをどのように使うか、それは自分にかかっている。
すこしづつ地の自分というものを周りの人に見せだしてきているのかもしれないということ。
Aに執着するのは、Aにだけ見せる赤ちゃんな私というのがあって、それはほかの人には見せられなくて、だからそれを見せられるというか、解放できる相手であるということで執着するんかいな、ということ。
つまりもっともっと地の自分を出せる人を増やしていけば、私のAへの執着はへるんだろうなという予感。
私の本来の傾向として、みんな大好き、というか、特定の人を必要としない愛情というものがある。博愛主義というか、男女老若とわず、個人という枠を超えた部分での愛情というか。
ていうか、誰でもなく誰でもいいという部分。
もちろん性愛とは全然異なった感覚。
ああやって大勢と踊ったりしているとほんとそういう気持ちになれるんだよね。それにあれはひとつのコミュニティだから、顔だけでも見たことのある人は沢山いるし。
そういうところで解放できる自分は気持ちがいい。
そういうことだなあ。
後は、自分を見せる恐怖というものをどれだけ克服していけるか。
それは、あのようなある程度の規制を持った中での人たちの中で練習していけばいいんだな、と思った。
うんうん。
プログラムをどのように使うか、それは自分にかかっている。
コメント