バウンダリー
2007年8月24日境界線というのかな?
昨日のミーティングではバウンダリーがお題になってました(自然に)。
私は身近な人へのバウンダリーの設定が苦手。と言うか混乱しています。ACOAであることが大きな問題なんだけど。うちのばあいはDVの問題もあったので、アルコールだけが問題ではなかった。
気づいたことをメモするようにしているんだけど、そのなかで
−うちの家族では加害者は表立って非難されず、被害者が責められた。
(もちろん影ではものすごく加害者に対して残酷な気持ちを持つことはOK。みんな沈黙して父を殺したいと思ってたから。)
でも、表立っては誰もそんなことを言わず、恐れているから父を奉ってた。
その中でhttp://home.earthlink.net/%7Eetsko/acoa.html
にもあるように
だからいまだに私の善悪の感覚、バウンダリーの設定は混乱している。
前にも書いたけど、病気の姉が母からお金を取ったということで騒いでいて、初めてなの?ときいたら、ママからは初めてよ、でもパパからはしょっちゅうだった、と言ってたとき、
「何でその時点でだめだって言わないんだ?」
と思ったけど、母にしてみれば姉を使って父に復讐していることだから、パパからお金を取っても行けど、ママからはだめ。と言うルールが姉に受け入れてもらえなかったってことがショックだったらしい。
・・・・・これは10歳くらいの子供の話ではなくて、登場人物は、70歳を越した両親と、四十代半ばの姉の話ですから・・・・。
・・・・・。
ね。
まあ、私のバウンダリーの混乱もある種当然だわな。
後思ったのは、昨日の日記にも書いたけど、痛みを覚えたらそれから離れるのではなくて、それに執着する、痛みを与えた人を変えようとする。
それはまさに、イズムなのです。
私には、何もできない。
痛みを与える人からは離れる。
話を聞くことはいい。そばにいてあげることもいい。
アドバイスを求められたりフィードバックを求められたら、それに答えられる範囲で答えるけど、相手に求められもしないのに相手のことを「思って」「思いやって」ものを言うことは、相手を尊重しないことだ。
それと大きな発見は
私にとって境界線を引くと言うことは、見捨てられ感を刺激する。近くない人に境界線を引くのは当然だけど、近い人に対して引くことは見捨てられる!と脳が知覚するらしい。
Aとの関係も私は最初のうち必死で境界線を引こうとしてたけど、Aも境界線に関して問題がある人間なので、お互いのイシューがぐっちゃになってしまったのだ。
だからこそわたしは今まで誰も、Aさえも踏み込むことのできなかったAの内部に入り込んで、それが結果的にはA自信の回復へのきっかけになっていったのだけど。
人間関係にはリスクがつき物だけど、今までうまくいってたことがうまくいかないことは、新たなことを学ぶリソースになる。
成長には痛みがつき物だけど、その成長の選択は自身の領域であって、他人の成長は他人の領域だ。
境界線=見捨てられると言うのはうそだ。
境界線を引いて初めてその人と一緒にいることができる。
それは何度かAとのやり取りで気づいていることだけど、相手から離れることが相手に近づくことだと言うことがよくわからなかった。
境界線がないと相手とは一緒にいられない。
相手が自分と違うと認識して、自分の感情や状況は他人のものではないと認知して、初めて相手も自分も一緒にいながら自由になれる。
ところで私は仮面反抗タイプの謝りタイプですね。最近判明してます。
昨日のミーティングではバウンダリーがお題になってました(自然に)。
私は身近な人へのバウンダリーの設定が苦手。と言うか混乱しています。ACOAであることが大きな問題なんだけど。うちのばあいはDVの問題もあったので、アルコールだけが問題ではなかった。
気づいたことをメモするようにしているんだけど、そのなかで
−うちの家族では加害者は表立って非難されず、被害者が責められた。
(もちろん影ではものすごく加害者に対して残酷な気持ちを持つことはOK。みんな沈黙して父を殺したいと思ってたから。)
でも、表立っては誰もそんなことを言わず、恐れているから父を奉ってた。
その中でhttp://home.earthlink.net/%7Eetsko/acoa.html
にもあるように
… 依存症者が物を壊した時、依存症者が謝る事はなく、家族がその始末をしています。子供は「悪い事をしたのに、悪くない事のように扱う家族」に困惑します。(この困惑を避ける為にも、家族の共依存をなくしていく事は必然的だと理解出来ます。) ・依存症者が昨日は期限がよく誉めてくれた事なのに、今日は同じ事をしてひどく怒られた、依存症者が酔っているかどうか、機嫌がいいかどうかによって左右される家庭の中で、何が正しい事なのか分らなくなります。・ 酔っている依存症者に、自分には覚えのない事で怒られた、自分にはどうにも出来ない事(生まれなきゃよかったのに、等)で怒られたなど、いわれもない事の原因が自分にあると思い込んでしまいます。 ・そのつもりはないのに依存症者の気に触る事をしたために、依存症者がもっとお酒を飲む事になり、共依存の家族に自分が飲酒の原因だと言われて困惑します。・家に帰ったら喧嘩しているかな、誰もいないのかな、帰りたくないけど帰らないと怒られるなぁ、とどうしたらいいのか分らない状態が続き、困っています。
この困惑が長期に渡ると、子供はその困惑が日常であると判断し、困惑に対しての対応しか出来なくなってしまいます。自分が傷付く事を避ける為に、 状況を察知し、それ相応な対処の仕方を自然に学んでしまうのです。
だからいまだに私の善悪の感覚、バウンダリーの設定は混乱している。
前にも書いたけど、病気の姉が母からお金を取ったということで騒いでいて、初めてなの?ときいたら、ママからは初めてよ、でもパパからはしょっちゅうだった、と言ってたとき、
「何でその時点でだめだって言わないんだ?」
と思ったけど、母にしてみれば姉を使って父に復讐していることだから、パパからお金を取っても行けど、ママからはだめ。と言うルールが姉に受け入れてもらえなかったってことがショックだったらしい。
・・・・・これは10歳くらいの子供の話ではなくて、登場人物は、70歳を越した両親と、四十代半ばの姉の話ですから・・・・。
・・・・・。
ね。
まあ、私のバウンダリーの混乱もある種当然だわな。
後思ったのは、昨日の日記にも書いたけど、痛みを覚えたらそれから離れるのではなくて、それに執着する、痛みを与えた人を変えようとする。
それはまさに、イズムなのです。
私には、何もできない。
痛みを与える人からは離れる。
話を聞くことはいい。そばにいてあげることもいい。
アドバイスを求められたりフィードバックを求められたら、それに答えられる範囲で答えるけど、相手に求められもしないのに相手のことを「思って」「思いやって」ものを言うことは、相手を尊重しないことだ。
それと大きな発見は
私にとって境界線を引くと言うことは、見捨てられ感を刺激する。近くない人に境界線を引くのは当然だけど、近い人に対して引くことは見捨てられる!と脳が知覚するらしい。
Aとの関係も私は最初のうち必死で境界線を引こうとしてたけど、Aも境界線に関して問題がある人間なので、お互いのイシューがぐっちゃになってしまったのだ。
だからこそわたしは今まで誰も、Aさえも踏み込むことのできなかったAの内部に入り込んで、それが結果的にはA自信の回復へのきっかけになっていったのだけど。
人間関係にはリスクがつき物だけど、今までうまくいってたことがうまくいかないことは、新たなことを学ぶリソースになる。
成長には痛みがつき物だけど、その成長の選択は自身の領域であって、他人の成長は他人の領域だ。
境界線=見捨てられると言うのはうそだ。
境界線を引いて初めてその人と一緒にいることができる。
それは何度かAとのやり取りで気づいていることだけど、相手から離れることが相手に近づくことだと言うことがよくわからなかった。
境界線がないと相手とは一緒にいられない。
相手が自分と違うと認識して、自分の感情や状況は他人のものではないと認知して、初めて相手も自分も一緒にいながら自由になれる。
ところで私は仮面反抗タイプの謝りタイプですね。最近判明してます。
コメント