よく、踊った一日

2007年6月4日
昨日はほんっとに暑くて、ビーチ日和だったけど、インドダンスとミーティングにいってきました!

インドダンスは私ともう一人イギリス人の女の人だけで、最初のころ、先生と私だけだったので緊張した・・・。

私は同居してた祖母から4歳のころからピアノを習ってて、祖母は私が練習してて間違うとすっ飛んできて横に座って何度も引かせたりして怖かった。ものすごく緊張して萎縮してしまうせいで何度も間違えて、そのときの恐怖感は今でも覚えている。

祖母は、私が唯一祖母から最初っから習っている孫だったので、彼女の私を一番よくできる生徒にして自分のすばらしさを証明したい、というような気持ちがあったんだとおもう。

おかげで私は、本当に萎縮した子供になってしまい。今でも緊張する場面、たとえば一対一で先生とやり取りをする、というようなシーンではいまだにわかっていることを反射的に間違えたりすることがある。

という事が昨日も起こった。

途中で他の生徒が来て、わたしもリラックスして集中できるようになってからは問題なかった。先生は、「すごく上手にで来ているから、後はもう少し自信を持ってやってごらんなさい。」というようなことを言った。

なんだかまるで小学生のような日記だけど、自分のトラウマがこういうところででるんだなあ、幼いころのものだから余計に根深いなあ、としみじみ思ってしまった。

実際私にとって、そういう状況でうまくやらない、というのは自分の間違う権利を主張して、何とかオーソリティからかけられる期待の重荷をよけるために自動的にしていたのだと知る。

何せよくできれば出来るほど、ハードルをあげられ、失敗する可能性はさらに高くなる。それを恐れるがあまり、無意識のうちに失敗あるいは未完成の状態でいる、ということをしていた。それは今でも実は仕事の面や学校の成績とかでもでている。

絵は(これは一時期仕事であったこともあったけど)、どこか未完成の部分がある、と指摘されてきたし、仕事の場合は、わざと失敗をしてやり直すということをしていた。わざと、(反射的にするからといってもわざとではないのだけど)、失敗して時間がなくなってしまい急いで前と同じ作業を何分の一の時間でやり、完成でない状態で提出する。

会社の出社時間にしてもそうだ。出社時間が厳しいところでは勤まらない。というか、そういう業種ではないものを選んでいる気がする。まあ、そういう仕事もしてたけどね。

でもそれについてほかの人の話を聞いてたら、彼女は自分がしたくないことは遅れる、ということを話してた。
ああそうか、とも思った。私は自分の好きなことにはあまり遅れない。
遅れるということ(それと頻度と度合い)は私のそのことに関しての好きさに関係しているんだなと思った。

ところで夜は、ミーティング仲間と踊りにいって思いがけず楽しく踊りまくってしまった。
忘れてたけど踊ることは私にとって、フラストレーションやテンションを発散する大事なスキルだったんだ。

夏だからそろそろまたサルサに明け暮れよう。

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