自国以外にすむということ
2007年3月1日 Recovery/回復は必然的に交友関係が狭まる。
なんとなく育っていく間に身に着けた社交技術が使えないからである。
そしてやっぱり国や、バックグラウンドが違うとその社交技術の質そのものが違う。その異質さがやっぱり無意識のうちにあだとなり、長期の関係や、また何の気なしに仲良くなるという行為が難しくなるような気がする。
逆に、日本人同士だと(私の場合特に女子)なんとなく仲良くなったりする。それだけで。あまりにも簡単に仲良くなるので、また距離をとっててもまた近づけばそれなりになんとなく仲良くなるので、それまで外人に対して持っていたガードというか、気疲れみたいなものがウソのようになかったりすることがある。
日本人の特徴というのはガードの低さだと思う。
基本的に安全な国で育つため、ガードが低い。逆にだから境界線を引くということが難しく、境界線の場所や引き方がわからない人が多いと思う。逆に境界線を引くことによって相手に傷つかれたりするというめんどくさいこともおきる。
でもこの境界線を引くということができない/知らないからこそいじめとかがおこりやすいんじゃないかな、とも思う。自分の価値判断で他人を測っているということに気づきずらい。(自分がそうしてないよ、と言っているのではありませんよ。)
他人が自分と違う価値観を持っていると言うことがわかりづらい。なぜならみなにたようだと思っているから。というか、違う、と言う考え方が元々あまりないような気がする。
特に子供同士なんかだと、顕著だと思う。子供は自分の育った環境を客観視したことなんかない。基本的に。おそらく自分の育った環境を客観視すると言う行為は、その環境がよそとどこか違う、ネガティブな要素を持っている、と言う認識をしている子供だけだと思う。
もしもその認識がない場合、あるいはあっても親がその子供の考えを否定している場合、子供にとってはとても難しいことだと思う。もちろんそれが育つ過程なのだけど。
私は10歳のときにはっきりとうちの親はだめだ、と思った。
私はこの親に頼っていると、頭がおかしくなるか、死ぬか、刑務所に行くか、風俗で生きるはめになるか、どれかだと思った。
だから必死に親との関係を絶とうとしていた。
おかげさまでアメリカで自立した生活を送っている。
でもそんなこと口が裂けても誰にもいえなかった。
大体友達に言ったところでわかってもらえるどころか、いじめの標的になる可能性は大である。(私は既に姉の病気のことで小学校に入ったときからいじめられたりのけ者にされていた)
親にも死んでもいえない。兄弟なんて考えもしなかった。
だから誰にも言わなかった。
でも最近気づいたのだけど、私は異常に強い子供だった。普通、そんな幼くてそんなことは難しいようだ。
だから、それができない子供がどうすりゃいいかなんてわからない。大体、普通は親に頼ったりすんだろうしな。親もどうしようと悩むんだろうしな。家ではそんなことはなかったので、と言うかは母そんな余裕もなく、父も母を殴ったり浮気したり酒飲んだり仕事することで、手一杯だったんでしょう。病気だし、あの人は。大体、あんなおかしな人に相談なんかできないでしょう。へたすりゃ母がまたさらに殴られるだけだもの。
ということで、私にしてみれば、心配してくれる親がいてよかったじゃないか、と思う。それと同時に私が死ななかったのは、偶然と言うか、自殺しても全然おかしくなかった状況だったと思うので、どうして死ななかったのかと言われても・・・。
なぜか、いつかは絶対この家を出てやる、という執念が大変強かったということかな。
家族の中にサポートシステムがなかったから、鬼っ子世にはばかる、と文字通り、ある時期からどんどん外へ向かっていった。
子供のころから、どうやって家じゃないところにお金を払わずに住めるのだろうか・・・と妄想していた。
なぜかその妄想力がニューヨークまで来ることになってしまった。ロフトに住むことを夢見てたような気もするが、個室とはいえプライバシーのほとんどない場所に住んでいたので(私の部屋はほとんど常に誰かの部屋に行くための通路となる部屋だった)、プライバシーのない、個室でない生活にとても恐怖を覚えていたのであった。
ただし、メキシコに行ったとき、プライバシーのない共同の部屋に泊まってたけど、別に周りの人がおかしな人でない限り、実はプライバシーがなくても別に何もおこらないことを実感した。
それはある意味、衝撃的なことだったけど。
とにかく、境界線を引くということはサバイバルには欠かせないことなんじゃないかと思う。他人の感情を他人のものとし、自分の感情を自分のものとして認識する。他人がこう思ってんじゃないのかな?と思ったら、それが正しいかどうかその人に確認すること。それを可能にすることはやっぱり話し合い(質問と思考と応答)になるんだと思うんだよね。
お互いの納得しない、話し合いには意味がないもんね。
なんとなく育っていく間に身に着けた社交技術が使えないからである。
そしてやっぱり国や、バックグラウンドが違うとその社交技術の質そのものが違う。その異質さがやっぱり無意識のうちにあだとなり、長期の関係や、また何の気なしに仲良くなるという行為が難しくなるような気がする。
逆に、日本人同士だと(私の場合特に女子)なんとなく仲良くなったりする。それだけで。あまりにも簡単に仲良くなるので、また距離をとっててもまた近づけばそれなりになんとなく仲良くなるので、それまで外人に対して持っていたガードというか、気疲れみたいなものがウソのようになかったりすることがある。
日本人の特徴というのはガードの低さだと思う。
基本的に安全な国で育つため、ガードが低い。逆にだから境界線を引くということが難しく、境界線の場所や引き方がわからない人が多いと思う。逆に境界線を引くことによって相手に傷つかれたりするというめんどくさいこともおきる。
でもこの境界線を引くということができない/知らないからこそいじめとかがおこりやすいんじゃないかな、とも思う。自分の価値判断で他人を測っているということに気づきずらい。(自分がそうしてないよ、と言っているのではありませんよ。)
他人が自分と違う価値観を持っていると言うことがわかりづらい。なぜならみなにたようだと思っているから。というか、違う、と言う考え方が元々あまりないような気がする。
特に子供同士なんかだと、顕著だと思う。子供は自分の育った環境を客観視したことなんかない。基本的に。おそらく自分の育った環境を客観視すると言う行為は、その環境がよそとどこか違う、ネガティブな要素を持っている、と言う認識をしている子供だけだと思う。
もしもその認識がない場合、あるいはあっても親がその子供の考えを否定している場合、子供にとってはとても難しいことだと思う。もちろんそれが育つ過程なのだけど。
私は10歳のときにはっきりとうちの親はだめだ、と思った。
私はこの親に頼っていると、頭がおかしくなるか、死ぬか、刑務所に行くか、風俗で生きるはめになるか、どれかだと思った。
だから必死に親との関係を絶とうとしていた。
おかげさまでアメリカで自立した生活を送っている。
でもそんなこと口が裂けても誰にもいえなかった。
大体友達に言ったところでわかってもらえるどころか、いじめの標的になる可能性は大である。(私は既に姉の病気のことで小学校に入ったときからいじめられたりのけ者にされていた)
親にも死んでもいえない。兄弟なんて考えもしなかった。
だから誰にも言わなかった。
でも最近気づいたのだけど、私は異常に強い子供だった。普通、そんな幼くてそんなことは難しいようだ。
だから、それができない子供がどうすりゃいいかなんてわからない。大体、普通は親に頼ったりすんだろうしな。親もどうしようと悩むんだろうしな。家ではそんなことはなかったので、と言うかは母そんな余裕もなく、父も母を殴ったり浮気したり酒飲んだり仕事することで、手一杯だったんでしょう。病気だし、あの人は。大体、あんなおかしな人に相談なんかできないでしょう。へたすりゃ母がまたさらに殴られるだけだもの。
ということで、私にしてみれば、心配してくれる親がいてよかったじゃないか、と思う。それと同時に私が死ななかったのは、偶然と言うか、自殺しても全然おかしくなかった状況だったと思うので、どうして死ななかったのかと言われても・・・。
なぜか、いつかは絶対この家を出てやる、という執念が大変強かったということかな。
家族の中にサポートシステムがなかったから、鬼っ子世にはばかる、と文字通り、ある時期からどんどん外へ向かっていった。
子供のころから、どうやって家じゃないところにお金を払わずに住めるのだろうか・・・と妄想していた。
なぜかその妄想力がニューヨークまで来ることになってしまった。ロフトに住むことを夢見てたような気もするが、個室とはいえプライバシーのほとんどない場所に住んでいたので(私の部屋はほとんど常に誰かの部屋に行くための通路となる部屋だった)、プライバシーのない、個室でない生活にとても恐怖を覚えていたのであった。
ただし、メキシコに行ったとき、プライバシーのない共同の部屋に泊まってたけど、別に周りの人がおかしな人でない限り、実はプライバシーがなくても別に何もおこらないことを実感した。
それはある意味、衝撃的なことだったけど。
とにかく、境界線を引くということはサバイバルには欠かせないことなんじゃないかと思う。他人の感情を他人のものとし、自分の感情を自分のものとして認識する。他人がこう思ってんじゃないのかな?と思ったら、それが正しいかどうかその人に確認すること。それを可能にすることはやっぱり話し合い(質問と思考と応答)になるんだと思うんだよね。
お互いの納得しない、話し合いには意味がないもんね。
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