携帯をなくして一週間経った
2006年6月26日コメント (4)でも以外に不便さを感じないのは私に電話して来る人の少なさのせいなのか。それにぼんやりしているせいなのかコネクションのせいなのか、たまにア以外の人から電話緒もらっても(アからもだけど)気付かずに後になってボイスメールで知るとかしょっちゅうだし。
電話、ないと忘れちゃいけない物が一つへって楽な気がする。
昨日一緒にショウをみにいった友達だけど、彼女はここ半年以上激しい更年期障害のせいか、なんだか人が変わったように思う。話しが通じない。前はいろんなことを話して物の見方への共感をお互いに感じるという幸福感に包まれていたのに、最近はそういうことどころかいちいち私のいうことに反論してくるような感じが、私はどうしていいのかわからない。NYで唯一無二の10年間途切れなかった女友達だから、私もできるだけ理解をしようとするのだけど限界を感じる。
でも思ってみれば、私が彼女の考えに私のそれを会わせていただけなのかも。
私は女の人といると自分をすぐに曲げてしまうというか、相手を傷つけないように接する癖がついている。私が退屈していようと、私が不快に感じていようと、それはいつも二の次でなんでもない振りをしてしまう。
距離を保つのが下手なのか。
相手が好きとか嫌いとかの前に、求められているということに自分が一生懸命になってしまう。だから特に、NYでの女友達関係というのはとても難しい。日本で暮らしてても一緒なのだろうか。
なんだろな、日本人の女友達や同僚とは、程よい距離を保つことは難しくないのだけど。それも多分過剰な分析へ気を酷使して相手が聞きたい言葉を吐く癖がついているからだろうか。でもそれはけして不快じゃないのだけど。
男の友達や男の人とはもともとそんなに期待がないから、自分の彼氏とかにならない限りとくに何も思わない。男は結局豚だし。
言い切るほどに、相手に対して期待がないからどうでもいいのだ。
優しくされるとびっくりするけど、その裏に或る意図を探ることも難しくない。
単純だしね。
そのすべての男乃至女の人にたいする考え方が、私が父と母に対して抱く思いと全く同じことに最近気がつき始める。
母には、いま現在どうであるかは別として、被害者で弱くて能力がなくまもってあげなければいけない(あるいはいけなかった)存在。=女性
父には何も期待しない。少なくとも金だけ払えよ、とおもっている。=男性
その思いを抱えて生きている私は、そのビジョンを世界中に投影して、そのなかで居心地の悪い思いをしている。私がゲイの友達と一緒にいるのが好きなのは、彼らは私の生い立ちのなかには存在しないから、性的な関係を全く持たない男として安心して一緒にいられるのだ。
回復への道は長い。
電話、ないと忘れちゃいけない物が一つへって楽な気がする。
昨日一緒にショウをみにいった友達だけど、彼女はここ半年以上激しい更年期障害のせいか、なんだか人が変わったように思う。話しが通じない。前はいろんなことを話して物の見方への共感をお互いに感じるという幸福感に包まれていたのに、最近はそういうことどころかいちいち私のいうことに反論してくるような感じが、私はどうしていいのかわからない。NYで唯一無二の10年間途切れなかった女友達だから、私もできるだけ理解をしようとするのだけど限界を感じる。
でも思ってみれば、私が彼女の考えに私のそれを会わせていただけなのかも。
私は女の人といると自分をすぐに曲げてしまうというか、相手を傷つけないように接する癖がついている。私が退屈していようと、私が不快に感じていようと、それはいつも二の次でなんでもない振りをしてしまう。
距離を保つのが下手なのか。
相手が好きとか嫌いとかの前に、求められているということに自分が一生懸命になってしまう。だから特に、NYでの女友達関係というのはとても難しい。日本で暮らしてても一緒なのだろうか。
なんだろな、日本人の女友達や同僚とは、程よい距離を保つことは難しくないのだけど。それも多分過剰な分析へ気を酷使して相手が聞きたい言葉を吐く癖がついているからだろうか。でもそれはけして不快じゃないのだけど。
男の友達や男の人とはもともとそんなに期待がないから、自分の彼氏とかにならない限りとくに何も思わない。男は結局豚だし。
言い切るほどに、相手に対して期待がないからどうでもいいのだ。
優しくされるとびっくりするけど、その裏に或る意図を探ることも難しくない。
単純だしね。
そのすべての男乃至女の人にたいする考え方が、私が父と母に対して抱く思いと全く同じことに最近気がつき始める。
母には、いま現在どうであるかは別として、被害者で弱くて能力がなくまもってあげなければいけない(あるいはいけなかった)存在。=女性
父には何も期待しない。少なくとも金だけ払えよ、とおもっている。=男性
その思いを抱えて生きている私は、そのビジョンを世界中に投影して、そのなかで居心地の悪い思いをしている。私がゲイの友達と一緒にいるのが好きなのは、彼らは私の生い立ちのなかには存在しないから、性的な関係を全く持たない男として安心して一緒にいられるのだ。
回復への道は長い。
コメント
私は「友情」を、互助会みたいに掛け金払って受けるサービスと考えているようです。
たぶんそれは間違いで、ある程度のぶつかりあいは必要なんだけど、日本はわりとそういう互助会思想が受け入れられやすいのかも…っていうか、どう他人とぶつかっていいかわかんなくて、表層的な感じになるのかも?
いや、「日本は」とか言う根拠ないんだけどね、単なる印象。
私もそう思って育ってきたけど、外国ではちょっと違うみたいな気もする。ていうか、外国でも、一回同じ場所で生きなくなると「旅行ついで」みたいなお家交換とかがもっと活発になったりすると思うんだけど、お互い近いとバリアを張ってしまう気がする。
いや、日本人同士だとどうもそうでもない関係もあったかな・・・。
やっぱり異人種異文化で育った同性って言うのは難しいのかな。異人種異文化で育った異性だとその異なるものに交わる「その気」があるから行っちゃえる部分もあるきがする。
やっぱり同性には共感を求めてしまう私が間違ってんのかな。しかも異文化で。でもそれを感じられたときはとってもうれしいのよね。乾いてたところに泉!みたいな。
だから、回虫が感じる齟齬を打破するには「日本語でモノを考えない」のがいいのかもしんない。
考えてみれば、外国友情のほうが互助会みたいなモンなのかもしれない。日本では別にお世話になったからといってその理由で仲良くなるということは少ないような気がする。
どっちかっていうと好き嫌いだ。(私の場合)自分が幼かったから(日本でたの25歳だし)受けるほうが多くて、それに対するお返しなんてしようと思っても出来なかったからかもしれない。