という呪文は私の中に深く根付いている。それは自分への呪縛と同時に、他人への批判として口から漏れ出ることもある。いわなくても心の中で思ってたりした。

NYに留学しはじめた頃は、周りの日本人が親からの仕送りで暮らしている人ばかりだったので、その彼らはろくに働いたこともなく遊んでいることがねたましかった。逆に自分で働いたおかねできて、自分の働いたお金で生活をしている自分のことをとてもかわいそうだし、偉いと思ってた。誰にもいわなくても心の中で思ってた。そして自分のことを人から助けられるようなことがあってはいけないときつく戒めてた。そしてそんな風にしてやっぱりNYにきて、ものすごい切り詰めた生活をして精神的にもいきずまってた友達のことをすごい、と思ってた。

でも、結局遊べる暇な人は自分のように学校やらバイトやらでくたくたになって時間のない人ではなく、ゆっくりのんびり生活している人としかあえなかった。よけいに自分の貧乏さや不憫さが強調されたけど、同時にそういうゆっくりした彼らと一緒にご飯を食べたりすることがとても安らぎになっていた。

おかげで私は自分が働いている間、自分のうちのことをしてくれるような「主婦」と結婚したいわあ、と書いたりしてた。だって男なんてセックスのときに有用なくらいで後はうざい。そんなことをしかとつきあいながら口にしてたっけ。ひどい恋人だよね。

アとの関係は、アは自分のことは自分でする主義だ。私は私のことだけすればいい。まあ、実際はそんなにサッパリきっぱりいかないし、だらだらしている私がなにもしなくて、アがお皿を洗ってたりするととっても罪悪感を感じることもある。
でもそれがいやなら私が帰ればいいんじゃない?という風に私も考えられるので、楽。楽だけど、それはお互いを部分で受け入れている、ということだ。その理由は様々だが、一つ私の側の傾向として私のみじかな男性を尊敬しない、という癖に由来していることをアから暗にいわれる。薄々は感づいていたが、アにそのことを昨日かなり直接的に指摘された気になってとても気分が悪くなった。

いや、アのことをいっていたのではないが、私が咋昨夜ケーブルの番組OZをみていたといったら、「本当はああいう番組を君は好きなんだ。人が拷問されているのを見るのが好きなんだ。君は母親は父親を拷問したいと思っているんだ、彼らが君を苦しめたのと同じように」といった。

その言葉にびっくりして、ちょうどそのときセックスをしようとしていたときだったので、すっかりその気を失ってしまった。実際その言葉は的を得ていたし、事実だと思う。でもセックスの前にいわれたい言葉じゃなかった。

すっかりその気を失った私にアは執拗にキスをしてきて、フォープレイを仕掛けてきた。私は「あんたは人を痛めつけてそれをまた慰めることで人を支配してコントロールしようとするよね。」といった。

ああ書いてて気分悪くなった。

それでもかなりいいセックスをしたのだが。

私たちの機能不全度や方向性はきっと似ているのである。
実際、彼が私の中のみたくない部分を知っていてくれている、というのはある種の安心感があるが、そこまで人の心の中に入り込もうとする行動はある種の虐待に近くないのだろうか。

まあ、人は皆心の闇、みたいな部分を持っていて、人には見せたくなかったり、触れられたくない部分がある。そこに踏み込まないようにするのが礼儀だ、という考え方もあるが、同時にそこも共有すること事態が恐ろしく悪いことではない、ともいえる。

物事は白黒はっきりつけなくていいのだ、わかるときがくれば、自分にとっていいことなのかそう出ないかがわかるのだ。

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