毒になる親―一生苦しむ子供
2005年3月1日 読書
ISBN:4062565587 文庫 玉置 悟 講談社 2001/10 ¥819
読んでないけど、文字検索したらでてきた。
私はAに親子関係の再演をしてもらっている。Aはアディクトでもあるけどキョウイゾンでもあるので、昔はNOといえなかったらしい。今だってなんだかんだいって私の世話を焼く羽目になっている。とはいえ、私のしてもらう世話はご飯を食べることとか、お掃除をしてもらうこと、(もちろんA宅での話です)くらいにとどまっている。あ、ビザのこともあったか。
Aは最初私が貧乏なのを知って、私にたかられるんじゃないかと戦々恐々としていたのを私は知っている。私は洋服かって、とかいうタイプでもないし、(買ってくれればうれしいけど)どっか連れてってとかいうタイプでもない。連れてってくれたらうれしいし、買ってくれたらうれしいし、ご飯ご馳走してくれたらうれしい。それで終わる。
別に遠慮深いとかそういうのではなくて、大体どうやって自分のして欲しいことをお願いすればいいのかわからない。ほしいものがあれば自分で買うべきだと思うし、変えなければ帰るようになるまで我慢すればいいと思う。だからおねだり、とか言うことはよくわかんない。
これ欲しいなーと思うけど買えないから他の人に買ってもらおう、とか思ったことってない。この人にかってほしいものがある、とか、これはこの人からもらいたい、自分で買うんならいらない、とか言うのならある。
この人はこのくらいの品物は、手ごろだし、私も必要だから、時期が誕生日だから買ってもらおう、とか、バレンタインだから買ってもらおう、とかいうのならあるけど。
いやそういうことをイワンとしていたのではなく、私はAに依存症である父に対して「変わって欲しい」と思っている思いをぶつけ、母に対するように、「私の感じる感情をそのままただ受け入れて欲しい、条件付や私の感情に自分の感情をぶつけたり便乗されたりしていつの間にか私の話ではなく、相手の話になってしまうようなことなく・・・」と望んでいる気持ちをぶつける。
ぶつけられた相手は、やはり、いつも心地よいわけではないと思う。AはAの問題があるし、私のことをかわいそうに思ってくれる分だけ私の要求に応えようとしてくれるが、「いつもじぶんのことばっかだな!」と怒られることもある。
それでも私はネゴシエートをしようとしない。なぜなら、仕事や友人関係の場で使う大人のツールである交渉方法は、恋愛関係には絶対持ち込みたくない、とかたくなに拒んでいる幼い自分がいるからだ。
その自分は「私はこのままで可愛がられたい、いい子になりたくない、聞き分けのいい子になってかわいがられてもうれしくない!」と激しく心の中で主張する。
それは、幼いころから行儀のいい子、大人びた子として評価されていた私が隠していた本当の望みなんだと思う。必要性に迫られて、大人ぶった物分りのいい振りをしていたけれど、基本としては意地っ張りでいじけやすい頑固な私は変わらない。
今日のセラピーで、「今のあなたは交渉をすることを覚えているし、0か100%かの極端な選択をしなくていいことを知っているはずだ」といわれて初めて今までそれをしたくない自分、と言うものを必死にかくしていたことに気づく。
この関係で、大人ぶって物分りのいい振りをして関係を長引かせたって仕方がない。そう思っている。
もしこのままの私を受け入れてくれないなら、いつでも終わればいい、と思っている。でも本当は相手に対して執着も愛着も依存も大きいし、失ったらまた大きな痛手を経験するのだろう。でも同時にこの関係の持つ問題点は時間をかければ消えるわけではないし、Aはいつでも私がいなくなってもよいように、心の準備をしている用に思える。
うまく行けばいいけれど、簡単にうまく行くとは思っていないし、うまく行かなくてもそれでいいと思っている、と私との関係のことを語っていた。
この本の表題はとても恐ろしくて、私は自分が毒になる親にしかなれない、と子供心に信じていたせいで、こどもをもつ=ありえないとずっと言い聞かせていた。
でもバイオロジカル時計のおかげか、ホルモンの呼び声が高まっているせいか、親になること、というか自分の子供に逢ってみたい、という気持ちは年々高まっている。
私が男だったら、年寄りになっても自分の子供が見れるのに、と思うと、男きらいの理由がまたひとつ増えそうだ(って昔からこのことについてはむかついていたが)。Aは50になるのに、自分の子供と会える機会があるのかと思うと、むかつく。
女は損だな、と思う。
読んでないけど、文字検索したらでてきた。
私はAに親子関係の再演をしてもらっている。Aはアディクトでもあるけどキョウイゾンでもあるので、昔はNOといえなかったらしい。今だってなんだかんだいって私の世話を焼く羽目になっている。とはいえ、私のしてもらう世話はご飯を食べることとか、お掃除をしてもらうこと、(もちろんA宅での話です)くらいにとどまっている。あ、ビザのこともあったか。
Aは最初私が貧乏なのを知って、私にたかられるんじゃないかと戦々恐々としていたのを私は知っている。私は洋服かって、とかいうタイプでもないし、(買ってくれればうれしいけど)どっか連れてってとかいうタイプでもない。連れてってくれたらうれしいし、買ってくれたらうれしいし、ご飯ご馳走してくれたらうれしい。それで終わる。
別に遠慮深いとかそういうのではなくて、大体どうやって自分のして欲しいことをお願いすればいいのかわからない。ほしいものがあれば自分で買うべきだと思うし、変えなければ帰るようになるまで我慢すればいいと思う。だからおねだり、とか言うことはよくわかんない。
これ欲しいなーと思うけど買えないから他の人に買ってもらおう、とか思ったことってない。この人にかってほしいものがある、とか、これはこの人からもらいたい、自分で買うんならいらない、とか言うのならある。
この人はこのくらいの品物は、手ごろだし、私も必要だから、時期が誕生日だから買ってもらおう、とか、バレンタインだから買ってもらおう、とかいうのならあるけど。
いやそういうことをイワンとしていたのではなく、私はAに依存症である父に対して「変わって欲しい」と思っている思いをぶつけ、母に対するように、「私の感じる感情をそのままただ受け入れて欲しい、条件付や私の感情に自分の感情をぶつけたり便乗されたりしていつの間にか私の話ではなく、相手の話になってしまうようなことなく・・・」と望んでいる気持ちをぶつける。
ぶつけられた相手は、やはり、いつも心地よいわけではないと思う。AはAの問題があるし、私のことをかわいそうに思ってくれる分だけ私の要求に応えようとしてくれるが、「いつもじぶんのことばっかだな!」と怒られることもある。
それでも私はネゴシエートをしようとしない。なぜなら、仕事や友人関係の場で使う大人のツールである交渉方法は、恋愛関係には絶対持ち込みたくない、とかたくなに拒んでいる幼い自分がいるからだ。
その自分は「私はこのままで可愛がられたい、いい子になりたくない、聞き分けのいい子になってかわいがられてもうれしくない!」と激しく心の中で主張する。
それは、幼いころから行儀のいい子、大人びた子として評価されていた私が隠していた本当の望みなんだと思う。必要性に迫られて、大人ぶった物分りのいい振りをしていたけれど、基本としては意地っ張りでいじけやすい頑固な私は変わらない。
今日のセラピーで、「今のあなたは交渉をすることを覚えているし、0か100%かの極端な選択をしなくていいことを知っているはずだ」といわれて初めて今までそれをしたくない自分、と言うものを必死にかくしていたことに気づく。
この関係で、大人ぶって物分りのいい振りをして関係を長引かせたって仕方がない。そう思っている。
もしこのままの私を受け入れてくれないなら、いつでも終わればいい、と思っている。でも本当は相手に対して執着も愛着も依存も大きいし、失ったらまた大きな痛手を経験するのだろう。でも同時にこの関係の持つ問題点は時間をかければ消えるわけではないし、Aはいつでも私がいなくなってもよいように、心の準備をしている用に思える。
うまく行けばいいけれど、簡単にうまく行くとは思っていないし、うまく行かなくてもそれでいいと思っている、と私との関係のことを語っていた。
この本の表題はとても恐ろしくて、私は自分が毒になる親にしかなれない、と子供心に信じていたせいで、こどもをもつ=ありえないとずっと言い聞かせていた。
でもバイオロジカル時計のおかげか、ホルモンの呼び声が高まっているせいか、親になること、というか自分の子供に逢ってみたい、という気持ちは年々高まっている。
私が男だったら、年寄りになっても自分の子供が見れるのに、と思うと、男きらいの理由がまたひとつ増えそうだ(って昔からこのことについてはむかついていたが)。Aは50になるのに、自分の子供と会える機会があるのかと思うと、むかつく。
女は損だな、と思う。
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