匿名性
2005年2月10日自助グループのミーティングの参加者は匿名であること、また他人の匿名性を守ることを鉄則としている。だからミーティングで話されたことはたとえ、配偶者などであっても、その場にいた人意外にけして口外してはならない。
これはなかなか難しい。
私は日本を発つ前、インターグループのセッションに泊りがけでいったことがあるのだけど、そこで聞いた分かち合いをいまだに忘れる事が出来ない。内容は、ほんの少し前に薬物とアルコールで急死した夫を持つ女性の話だった。
私もAが性格的にアディクトの傾向が強いので、いやだな、と思うことがある。それは当然なのだけど、私のように父親がアディクトでその父親に守ってもらった(実際に被害にあった事が同じくらいになるのだけど、何かの刷り込みで父親に守ってもらった、という思い入れは強い)という過去を持つ人間は、それでもアディクトに守ってもらいたい、あるいは守ってもらっているという幻想を強く抱く。
だからその相手から守ってもらえてない、と感じること、あるいはさらに言うとその相手から被害を受けている、恥かしく思っている、などというネガティブな感情は、自動的に端から否定しようとしてしまう。
今日の映画館での出来事はとてもよかったと思う。確かにAに映画をおごってもらいましたが、私は自分の食べ物は自分で買ったし、その後レストランに行こうと誘われたけど、ミーティングがあるから、と断った。何か、父親から何かしてもらうことをかたくなに拒んだ子供のころの経験と重なった。
性格が同じなのだ。
父親も私が恥かしがるとか嫌がるとかそういうことを知っていて、何かをする。そして私の機嫌を損ねると、その機嫌を買うかのようにあてつけがましくしょうもないものを買ったりしていた。
だから私はなぜか子供なのに、娼婦のような気持ちになっていた。いつも私を嫌がらせる相手は、私の感情を金銭や物で買おうとする。その相手は主に父親であり、だからこそ私は今まで「私に物を買えない様な貧乏人」を相手にしていたのだ。
逆を言うと、与えてもらうものを受け入れるには、私は何かを犠牲にしなくてはいけない。そういう風に思うようになった。
だからこそ鹿には言えた事がAにはいえなかったりする。鹿はいつも聞いてくれて、私は聞かれることなんかなれてなかったから、聞かれるとなんだか詮索されているみたいでいやな気がした。彼は強度のきょういぞんだったけど、でも私はおかげで幸せだったこともあった。もっと言えば、自分の痛みをキョウイゾンの魔術で麻痺させてもらってた。
私は共依存の傾向の強い人は好きだ。
日本人に限らず、アジア人は非常にキョウイゾン傾向が強いと思う。共依存の人のやさしさは、まるで麻薬のようだ。私はキョウイゾン依存症なのかも・・・と帰り道思ってしまった。
甘く甘く甘やかしてくれていた母親、私を許して受け入れてくれていた女友達達、鹿。Aはアディクトの傾向が強すぎる。
そこが私の癇に障る。なぜなら私もアディクトの傾向が大変強いからだ。
Addictは共依存のその場だけのやさしさに酔ってしまう。キョウイゾン傾向の強い人間は、自分は他人の評価によって成り立っていると信じているので、ついその場にいる人たちを喜ばせようとがんばってしまう。
ああ、立派な機能不全カップルの出来上がり。
とはいえ、機能不全ではないカップルはいるのか?といえば、いない。程度の問題だよ、という。
だからそんなにあわてなくても今が幸せならいいじゃない、という。そこそこの幸せでいいのだよ、という。
でもどこかに絵空事のような幸せがあるのでは?!と思う事が私達の病でもあり、また救いでもある、とも言うのかなあ。
これはなかなか難しい。
私は日本を発つ前、インターグループのセッションに泊りがけでいったことがあるのだけど、そこで聞いた分かち合いをいまだに忘れる事が出来ない。内容は、ほんの少し前に薬物とアルコールで急死した夫を持つ女性の話だった。
私もAが性格的にアディクトの傾向が強いので、いやだな、と思うことがある。それは当然なのだけど、私のように父親がアディクトでその父親に守ってもらった(実際に被害にあった事が同じくらいになるのだけど、何かの刷り込みで父親に守ってもらった、という思い入れは強い)という過去を持つ人間は、それでもアディクトに守ってもらいたい、あるいは守ってもらっているという幻想を強く抱く。
だからその相手から守ってもらえてない、と感じること、あるいはさらに言うとその相手から被害を受けている、恥かしく思っている、などというネガティブな感情は、自動的に端から否定しようとしてしまう。
今日の映画館での出来事はとてもよかったと思う。確かにAに映画をおごってもらいましたが、私は自分の食べ物は自分で買ったし、その後レストランに行こうと誘われたけど、ミーティングがあるから、と断った。何か、父親から何かしてもらうことをかたくなに拒んだ子供のころの経験と重なった。
性格が同じなのだ。
父親も私が恥かしがるとか嫌がるとかそういうことを知っていて、何かをする。そして私の機嫌を損ねると、その機嫌を買うかのようにあてつけがましくしょうもないものを買ったりしていた。
だから私はなぜか子供なのに、娼婦のような気持ちになっていた。いつも私を嫌がらせる相手は、私の感情を金銭や物で買おうとする。その相手は主に父親であり、だからこそ私は今まで「私に物を買えない様な貧乏人」を相手にしていたのだ。
逆を言うと、与えてもらうものを受け入れるには、私は何かを犠牲にしなくてはいけない。そういう風に思うようになった。
だからこそ鹿には言えた事がAにはいえなかったりする。鹿はいつも聞いてくれて、私は聞かれることなんかなれてなかったから、聞かれるとなんだか詮索されているみたいでいやな気がした。彼は強度のきょういぞんだったけど、でも私はおかげで幸せだったこともあった。もっと言えば、自分の痛みをキョウイゾンの魔術で麻痺させてもらってた。
私は共依存の傾向の強い人は好きだ。
日本人に限らず、アジア人は非常にキョウイゾン傾向が強いと思う。共依存の人のやさしさは、まるで麻薬のようだ。私はキョウイゾン依存症なのかも・・・と帰り道思ってしまった。
甘く甘く甘やかしてくれていた母親、私を許して受け入れてくれていた女友達達、鹿。Aはアディクトの傾向が強すぎる。
そこが私の癇に障る。なぜなら私もアディクトの傾向が大変強いからだ。
Addictは共依存のその場だけのやさしさに酔ってしまう。キョウイゾン傾向の強い人間は、自分は他人の評価によって成り立っていると信じているので、ついその場にいる人たちを喜ばせようとがんばってしまう。
ああ、立派な機能不全カップルの出来上がり。
とはいえ、機能不全ではないカップルはいるのか?といえば、いない。程度の問題だよ、という。
だからそんなにあわてなくても今が幸せならいいじゃない、という。そこそこの幸せでいいのだよ、という。
でもどこかに絵空事のような幸せがあるのでは?!と思う事が私達の病でもあり、また救いでもある、とも言うのかなあ。
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