ヒットラーの映画

2005年1月14日
を見てて、自分の祖父のことを思い出した。私の父方の祖父母は、祖父=海軍士官学校を出た後海軍へ。終戦まで職業軍人、祖母=そこそこ知られたミッションスクールの1期生で祖父との結婚の際は女中付きで興し入りした。

祖父の父のことは知らないけど、祖母側の曽祖父は国際船のパーサーだったため、祖母は「for my daugter Take] と裏に達筆な毛筆で書かれた外国製の鏡を持っていた。料理は終戦後まで、ハムエッグとかサンドイッチとか白身魚のムニエル(祖父が洋食好きだったので)と以外に料理した事がなかったので、おむすびも作れないくらい料理ベタ+不器用な人だった。

二人ともクリスチャン(しかし祖父はカソリック、祖母はプロテスタント)だった。祖母は戦時中に貴金属などはすべて軍隊に寄付してしまい、後で知ったのは、そんなことをしたのはお金持ちの友人の中で祖母くらいな物だったことを知る。祖母は「職業軍人の妻としてお国のためにみなの先頭を切って寄付しなければいけない、と思った。」と後で言っていた。

終戦後、三重の海軍の基地内の軍の所有地に住んでいた父の家族は当然ながら住む場所もなく、東京にもともとあった自宅は焼けていて、たぶん、「小屋」のようなところに移り住み、祖父の帰国がかなわない間、祖母は魚河岸にいって魚をもらい、リヤカーで行商をして、8人の子供を養った。祖父は帰国して人がかわったようになり、暴れて祖母を殴った。

一番上のおばは三重の高校の数学教師と結婚して、次の長男は奨学金で医師になった。次男の伯父は中学を出て「金が必要なら俺が稼ぐ」といって船員になった。最近まで名古屋で船会社を運営していた。三男以降のうちの父は、どちらかの伯父に学費を払ってもらって高校や大学にいった。

私の母方の両親はというとまったく異なるバックグラウンドをもっている。祖父は丁稚奉公をして一人で鍛冶屋から鉄工所を立ち上げ、二人の妻を持って、その二人とも病死している。(ちょっと本当かな?と思うのだけど、まさか爺さん、殺してないよね?と時々思う。)祖父はもともと侠客だったらしい。彫り物をしなくてよかった!といっていたと伯父だか大叔父だかが言ってた。三番目の妻が私の祖母になる。年は20歳くらい離れていたんじゃないだろうか。

私の祖母は山形の村の出身で、小学校3年生のときに母親をなくし、そのころから幼い兄弟の子守をするために学校を辞めた。曽祖父は飲んだくれで、収入のためにああ小麦峠ばりに製糸工場に売られた。祖母は器用だったので、師範になり、その後横浜に来た。横浜で縁談があったのが祖父だった。祖母はこのころ「危うくインド人に売り飛ばされるところだったこともある」といってた。教養も金も両親もいないで一人身で当時の都会に来た祖母はいろんな危ない目にあったんじゃないか、と思う。売り飛ばされる、なんて珍しい話ではなかった時代。

二人とも教育はないけれども、終戦を迎えても横浜の工場と自宅は維持する事が出来た。

もしも終戦がなかったら、もしも私の祖父が軍人であり続けただろうし、二つの階級(?)がひっくり返って混ざり合わなかったら、私が両親の子供であることはありえなかったなあ、と思う。

そう思うと私もたどっていけば戦争の生んだ子供なんだな、と思う。

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