思うに
2004年10月11日私のスーパーホーニー症状も寂しさが原因なのかもしれない、と思う今日この頃。
先週の結婚して騒ぎからやっぱりどこか関係がぎくしゃくしている。私はこの関係は「いつか終わらせなきゃナーあんまりのんびりもしてられないし」
という気持ちが表面化してきているから何だと思う。
彼は彼で私と一緒にこの関係を進めていけるような状態でないから、このまま、現状維持、いつかはれる時が来るかもしれない幸運を待つ、という感じなんだろうか。
どちらにせよ彼のコントロール下ではない、と意識をしている。かといって私のコントロール下かというと、別れることだけがコントロールを取り戻す唯一の方法だと思う。
ただ、金曜日に彼に意識的に会わない、という方法をとったときに意外にも泣き出す、という症状が現れてちょっと驚いた。まあでもそんなの一過性の雨みたいなもので、その後なんでそんなに彼が恋しいのかという分析に入ってみたのだが。
ここ(彼のアパート)にいると、お家的な気分が味わえる。それは多分に彼の性格によるものだと思うのだけど。何だろうなあ、共生可って感じでついのんびりしてしまう。
何もせずにゴロゴロしたり何も考えずにぼんやりしたり。
私もかなり一人でいるとスパイラル奈落の底みたいに考えることがあるので、この場所は自分の場所ではないけどいていい場所なので、なんかぼけっとしてられるのだ。
もちろんそれの好作用、と悪作用(っていうの?)はあるのだけど、でも自分の持っている物(この場合は彼を含めた環境、状況)に対して感謝をするという姿勢は忘れてはならないと思う。
実際この環境が、私にとって大切か否かということを問えば、すっごく大切なんだと思う。私にとって、自分から逃避できる場所というのはあまりない。自分から逃避していいの?と言う質問もあるだろうけど、私には自分の自分に対する詰問や自責その他いろいろのネガティブ攻撃を克服するような力はまだない。
もちろん、自分で自分を責めないようにすることを学ぶ必要があるのだが、今手に入ったつかの間のリゾートを手放す気にはならないのだ。
セラピーでも語ったのだけど、アとの関係は、私と私の父がラブラブ関係だった頃を思い出させる。気持ち悪いかもしれないけど、父は本当に私にめろめろだった。小学校を卒業するまでおこられたこともなかった。ただし、母への虐待のことは知っていた。その頃の私の気持ちはおそらく、母が姉達の病や8人家族の家事や、本人自身の心身の衰弱などに消耗している間、私にはあまり目が届ききれなかったことなどのせいで、私がひどく孤独だったにもかかわらず、それを伝えることができなかったという母との関係のうまくいかなさから、父がたまに見せる私への溺愛ぶりを理想化してしまったこと、またそのことへの母への罪悪感、悪い人であるはずの父をははより好んでしまう自分への懲罰的傾向など、まあいろいろあったにちがいないのだ。
もちろんそれは今でもあって、だからこそこんなに私は、あーあ、なのだけど。
実際自分の心をのぞいたところで、私が働きたいか、NYにいたいか?アと一緒にいたいか?という問いかけをすると、ノー、まあまあ、ア=心のリゾート=イエス
なのだ。
でもアが心のリゾートでないならば、きっと答えはノーなのだろう。でも私の素早い(先走る)認識から言うとアはまだまだ心のリゾートなのである。
それを思うと、オルランドとの溺れることのできるセックスは大変重要な心のリゾートだったんだなあ、と今更懐かしみながら、または惜しみながら思うこともしばしばなのだ。
先週の結婚して騒ぎからやっぱりどこか関係がぎくしゃくしている。私はこの関係は「いつか終わらせなきゃナーあんまりのんびりもしてられないし」
という気持ちが表面化してきているから何だと思う。
彼は彼で私と一緒にこの関係を進めていけるような状態でないから、このまま、現状維持、いつかはれる時が来るかもしれない幸運を待つ、という感じなんだろうか。
どちらにせよ彼のコントロール下ではない、と意識をしている。かといって私のコントロール下かというと、別れることだけがコントロールを取り戻す唯一の方法だと思う。
ただ、金曜日に彼に意識的に会わない、という方法をとったときに意外にも泣き出す、という症状が現れてちょっと驚いた。まあでもそんなの一過性の雨みたいなもので、その後なんでそんなに彼が恋しいのかという分析に入ってみたのだが。
ここ(彼のアパート)にいると、お家的な気分が味わえる。それは多分に彼の性格によるものだと思うのだけど。何だろうなあ、共生可って感じでついのんびりしてしまう。
何もせずにゴロゴロしたり何も考えずにぼんやりしたり。
私もかなり一人でいるとスパイラル奈落の底みたいに考えることがあるので、この場所は自分の場所ではないけどいていい場所なので、なんかぼけっとしてられるのだ。
もちろんそれの好作用、と悪作用(っていうの?)はあるのだけど、でも自分の持っている物(この場合は彼を含めた環境、状況)に対して感謝をするという姿勢は忘れてはならないと思う。
実際この環境が、私にとって大切か否かということを問えば、すっごく大切なんだと思う。私にとって、自分から逃避できる場所というのはあまりない。自分から逃避していいの?と言う質問もあるだろうけど、私には自分の自分に対する詰問や自責その他いろいろのネガティブ攻撃を克服するような力はまだない。
もちろん、自分で自分を責めないようにすることを学ぶ必要があるのだが、今手に入ったつかの間のリゾートを手放す気にはならないのだ。
セラピーでも語ったのだけど、アとの関係は、私と私の父がラブラブ関係だった頃を思い出させる。気持ち悪いかもしれないけど、父は本当に私にめろめろだった。小学校を卒業するまでおこられたこともなかった。ただし、母への虐待のことは知っていた。その頃の私の気持ちはおそらく、母が姉達の病や8人家族の家事や、本人自身の心身の衰弱などに消耗している間、私にはあまり目が届ききれなかったことなどのせいで、私がひどく孤独だったにもかかわらず、それを伝えることができなかったという母との関係のうまくいかなさから、父がたまに見せる私への溺愛ぶりを理想化してしまったこと、またそのことへの母への罪悪感、悪い人であるはずの父をははより好んでしまう自分への懲罰的傾向など、まあいろいろあったにちがいないのだ。
もちろんそれは今でもあって、だからこそこんなに私は、あーあ、なのだけど。
実際自分の心をのぞいたところで、私が働きたいか、NYにいたいか?アと一緒にいたいか?という問いかけをすると、ノー、まあまあ、ア=心のリゾート=イエス
なのだ。
でもアが心のリゾートでないならば、きっと答えはノーなのだろう。でも私の素早い(先走る)認識から言うとアはまだまだ心のリゾートなのである。
それを思うと、オルランドとの溺れることのできるセックスは大変重要な心のリゾートだったんだなあ、と今更懐かしみながら、または惜しみながら思うこともしばしばなのだ。
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