あら日記が書ける。

2004年9月14日
セラピーで
「いろんなことをぐるぐると考え続けてしまうボール」の話をした。そのボールの中に入ってしまうと混乱してしまうのだ。主に相手に自分はどう思われているのか、この関係はどこまで自分をインベストすべきな関係なのかを相手の気持ちをベースに考え続けてしまうのだ。

一緒にいて居心地が良いと思ってたけど、それは相手のニーズが自分にむけられているからなのか、相手のニーズにはまっていることが心地よいからなのかよく分からない。なぜならば私は「必要とされていることを必要としがちな」立派な共依存癖があるのだ。
共依存癖=何かに所属しているという感覚なのかもしれない。必要とされている、という事は役割を与えられているということだ。その役割が好ましければ人は悩んだりしないのだけれども、やくわりっつうのは自発的に作ることはむずかしかったりするので、ついつい与えられた役割に固執してしまい、自分を見失ってしまったり、その役割じゃ不満だわ、と飛び出してしまう自分がいたりする。

理想的なのは自分自身と与えられた役割のギャップをネゴシエートして互いに互いを近づけていく作業が必要なのだけど、どうも私はその作業を怠りがちだ。そうか、その作業をする事が大切だよね。

うんうん。

白か黒かをはっきりさせたがる性格、というと聞こえはいいけど実際的ではない。実際的・・?現実的、か。今回の関係のいい点は、少しづつだけど項したいんだけど・・ということを自分が確認取りつつ相手に伝えられるという点なんだと思う。

まあ、そうだな。

少し距離を置いた方がいいような気がする。

思ったよりも相手のニーズに私が応えている、という状況の方が多い気がする。それがじぶんがNYにいる理由=なぜなら自分はもう一度ここで試したいから・・・に一人ではなく誰かがいる、という状況が都合がいいものであればそれでいいのだけど、実際誰かがいる=誰かのニーズのために働いてしまう=自分の目的を達成していない、になってしまうと大変まずい気がする。

彼か今週末フロリダに結婚式に出席しにいく。だから今週は半分会えなくて、でもいい機会かもしれない。

彼が立つまでは一緒にいようかな、と思ってたんだけど、相手の具合が悪いのでやっぱ夜はかえろうかと思う。だって人がいると落ち着かないじゃない?って、私が落ち着かないのかも。

そろそろかえろう。

と帰ってきた。

やっぱ自分のうちはいいなあ。やることいっぱいあるし、自分のために。

でも今日は風邪引きの彼のためにご飯を作って上げれて良かったなあ、と思う。私はタイミングをはずしやすいので、やっぱり何か相手にしてあげられるときにしてあげれるといいよね。

私はとても相手に感謝していることは確かだしね。
彼のおかげで今年の夏はとてもいい思い出が出来たもの。

うんうん。

これからどうなっていくかわからないけど、距離が出来てもきっと友達でいられるようなそんな関係であって欲しいとおもう。

やっぱり私はメキシコに行くのかなあ。

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