いろいろなこと

2003年2月1日
昨日は日系の本屋に寄り道をした。そこでタケシとホーキング君の対談をよんだ。タケシって人情っつか、わりと演歌だよなあ。そんで(また)村上龍の書いた「敗北者に恋愛はできるのか?」という本をよんだ(副題だったかも知れない)

その本は質問形式だったのだけど、質問に「彼と結婚を考えていましたが、年上の彼の年収が私のちょうど半分です。それを思ったらなんか気持ちが冷めてしまいました。」ってのがあった。

その回答に村上龍が「年収が半分っていうのはこの男はそれで満足しているのだろうか?私のほうが収入が多いってことは私にたかるってことじゃないだろうか?それでもいいとこの男は思っているのだろうか?見たいなことを「彼の収入は私の半分だということを考えたら気持ちが冷めてしまった、という風にこの女性はいっているんだと思います。」ととても親切な回答をしてた。そして私はそれを読んでほっとした。

もちろん何年も前のことになってしまうけどやっぱり私も似たような状況にあって、悩んだ。今はすっかり私のほうの収入が少なくなってしまったが、それで別れた今のほうが当時よりなぜかすっきりしている。多分あの頃は「自分は金で男を計っているんじゃなかろうか?」と罪悪感があって抜けられなかったような気がする。しかし、今収入がその彼よりうんと低くなって、そいつに出て行かれて今のほうがよっぽどさっぱりよ、という私も、自尊心があるんだかないんだか、自己評価が低いんだか高いんだかわからない。

実はあるサイトの人生相談サイトに投稿したら載ってしまったことがある。そのときは結構ショックな返事を書かれた。それの内容は「あなたに収入が減って、彼にとってあなたは恋人としての価値のない人になってます。彼は貧乏で彼女がいない、より、貧乏で彼女がいたほうがいいにきまってます。」見たいなことを書かれた。それは私が彼の金銭感覚や収入を見て、彼に頼れないなあ、でも、結婚をしてGCをとると当然仕事の幅が広がる、ということで悩んでいる、ということを書いた気がする。

回答者の人は「彼は贅沢品のようなものなのだからコストを管理するために、ダウンサイズするにはまず贅沢品から削除していくべきです。」ともかかれてあって、そうかー。とも思った。

金、という見方よりも、自分がピンチ、あるいはピンチだと自覚しているときに、無理に楽しむふりを強要されたり、先のことを考えないふりを強要されたりするのは辛かった。わかってもらえてないという感覚しかもてなくて。

昨日のセッションでNYにいるベネフィットについて話していた。答えは「誰かの何か、とかどこどこに所属している誰かにならなくてもいい。自分が自分になるために自分の一生をかけて生きている見本になる友人達がいてくれて、辛いときには見守ってくれるような気がする。その人たちを見ていると私も他の誰でもない自分という人になるためにがんばりたいと思う。」ということだった。

日本に帰って思いがけずに割合分かりあえるなあ、と思ったのは企業で働く同世代のひとか上の世代の人だった。まあ、いわゆる中年になりかかる人たち。実際自分の昔の友人達が妻になり母になっている状態なので、自分の立場として「これからの自分」というものを失業の可能性や、窓際に追いやられる可能性を心配しながら働いている人=おっさん連中のほうが近くなってしまう。

自分=おっさん。とした場合、おっさんというのは非常に空虚なものだなあ、と思うこともある。行きつけの飲み屋を持つにせよ、風俗に行くにせよ、浮気をするにせよ。行き場がないのかもしれない。自分というWholeを受け入れてくれる場がないのかもしれない。友人達はそれぞれ別々の会社に属するし、同期は基本的にしのぎを削るようなライバルに代わるし、落ちこぼれたら出世頭や上司の悪口や嫉みで憂さを晴らす。

むなしい。

だからといって哀れんでも仕方ない。
引っ込みつかないから前に出るしかない。
帰るところもないから前に行くしかない。

大事なのは友達だよな。といつも思う。
友だちも、やっぱり気を使って頭を使って維持していくもんんだよ、とおもう。

でもね、なかなか友だちになれる人も少ないしね。結局は女に走るのかなあ。女に走れない私はどうすればいいんだ!

はしりたい。

でも女は同性だからね、同性の目は厳しいよ。

うん。

私だって、疲れた女の世話なんてしたくないもん。疲れた男の世話もやだけど。

みんな欲しいものはにたようなもんなのになあ。甘えたいんですな。

さて。どうするか。

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